‘80年代のブント(戦旗)活動家よ思い出を語れ(後半)ブントスレまとめ その1-2

戦旗派 社学同

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‘80年代のブント(戦旗)活動家よ思い出を語れ 後半(500-1000)

引用元:https://money3.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1065521733/
2003.10~2004.05 ブントスレまとめ → 前半はこちら

509 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/04 00:06
>>498
そうそう。俺にとっても戦旗はなんか感傷的になる経験。
今も久々に大衆集会に顔を出すと、あいさつする人、
もう運動から引いてしまって会えない人、いろいろいるけど、
「あの時代」を一緒に生きてきたんだな~って感じ。
逃げ出したんだったら、顔をあわせたら思い出話くらいできると思うよ。
反対して出て行った人にはエグイけど(こういうところ、まだ前衛気質をひきずってるんだなと思う)。
511 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/05 19:31
>>509
現役時代は全共闘のこととかを感傷的に振り返る
オッサンとか大嫌いだったんだねどなw
自分がそうなってしまいますた。
もっとみんな懐古主義的に語ってください。
513 : 491[] 投稿日:04/03/10 01:05
今日仕事で近くを通ったので、本当に20年ぶりに僕の地区の
アジトがあった街に立ち寄ってみた。
正確に言うのなら、20年間避け続けた街なのだ。
寄ろうと思えば今までだって寄る機会はあった。
このスレが何となく僕をそこに立ち寄る気にさせたのだ。街は呆然とするほど変わっていた。
僕たちが週に2~3回は飲んだくれていた居酒屋は影も形もなくなっていたし
そもそもこんなにもキレイな町並みではなかったのだ。あの頃自分が40歳になるなんて全くイメージできなかった。
ましてや、40歳になった時に二十歳の時の自分のことが
こんな風に陽炎のように曖昧な記憶になるなんて思いもしなかったよ。ただ一つ確信をもって思い出せるのは、僕はあの時世界を相手にしていたのだ。
そのくせその頃の町並みを正確に思い出せないのは、きっと僕は下ばかり向いて
歩いていたからに違いない。
514 : 狼煙派[] 投稿日:04/03/10 01:09
>>513
茶化すようで申し訳ないが、俺は今の仕事について6年になるけど
近所の商店街のテナント10件以上替わっちまってて二年前何があったか
もう覚えてない。
あなたが下ばっかり向いて歩いてたからというわけでもないと思うよ。
ちなみに俺は活動始めたのは高校生だったが、その高校は今はもう無い。
515 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/10 01:13
中核派もまだあるよ。

中身は変わったけど・・・

516 : 狼煙派[] 投稿日:04/03/10 01:19
最近通勤コース変えて小学生の頃住んでた街を通るようにした。

小学生の頃お菓子を買ってたお菓子屋は二軒とも無くなってた。
雑貨屋はコンビニに変わっていた。
スーパーは酒コーナーが独立して二軒になっていた。

ナンカセツナイ

517 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/10 21:08
首都圏の話題が中心で足立分派時に荒派に残り、一時期は戦旗派を支えた
愛知労共闘が、何故かあまり話題になりません。80年代にはゴタゴタが
あったようですが、知っている人教えて!
当方は管制塔前後に、周辺にいました。
管制塔戦士のYさんは、もう離れてしまったの?
518 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/10 21:28
 昔、愛知県立大にいたね。
520 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/11 16:32
>>517
そういえば、旭丘は高叛共闘の拠点だったな。
T原さんもいたし。愛知で足立に行ったのは一人もいなかったの?
521 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/11 16:57
>>520 古い話はいいよ。80年代の話でいきましょうよ。
ところで、ここにいる人は学生戦線?労働戦線?俺は学生で闘っていたぞ
523 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/11 17:38
>>521
オレは学生。
ただこのスレの90番で当時の戦旗のあり方へに対して
>その党派メンバーの社会的関係性、「労働者である」「学生である」という事と、
>党での運動が全く関わり合いのない形になっている党、というのもすっごく珍しいよ。
>殆ど「出家」のイメージなんだよね。
と批判されてるんだけど、>>521さんが経験された学生戦線ってどんな闘いだった?
オレとしては駅で情宣するのが労共闘で大学で情宣するのが社学同程度の
差しか感じなかったんだけどなー。
揶揄じゃなくて、90番のレス読んだら「あーなんか分るな」と思ったわけ。
確かに三里塚への現行としての長期滞在とか、全国集会に向けて各地の社学同メンバーが
首都圏の拠点の大学に泊り込んで連日決起するようなことはあったけど、それも
「学生戦線として」って言うよりも「学生は時間があってヒマだから」という
理由の方が大きい気がする。
522 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/11 17:21
>>520
80年代に愛知に社学同って隊列として存在してたの?
オレの記憶では首都圏と関西(京都・大阪)しか見たことないんだけど。
三里塚に現行とか出してた?
525 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/12 17:32
>>520
古い話で恐縮ですが、一応、知っている範囲で言うと・・。
足立分派以降、高校生活動家は進学せずに労働者に、大学生は中退し同じく労働者になりました。
高校はあさひが丘、施行芸、名護や学院が拠点でした。
名護や学院のフラグは、進学してしまい脱落しました。
526 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/12 18:33
>>525
>足立分派以降、高校生活動家は進学せずに労働者に、
>大学生は中退し同じく労働者になりました。
それは組織的な方針としてそうなったのですか?
527 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/12 21:13
>>526
私自身が結集したのはそれ以降なので伝聞ですが、当時は高校から
学生に持ち上がった人が一人もいませんでした。
(当時の学生は大学に入ってから結集した人が少数いただけです。)
当時は7.7華青闘告発以来の血債猛省精神が重要なスローガンでしたので、
高校生たちにとって大学に行くと言う選択は(組織的に否定されたわけ
ではありませんが)、取りえなかったのだと思います。
人間的にも頭脳的にも、非常に優秀な方たちが中高卒の資格で職場に
入っておられました(郵政や清掃局、工員、と場など)。
自分はそのような先輩達についていけないと脱落して、今はすっかりブルジョア的生活に
浸ってしまっています。
528 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/12 22:56
いやー。やっと帰宅。次年度予算の詰めで寝れない日々だったけどひと段落。
最近盛り上がっていますね。
→527
確かに上福岡のK太郎も中卒だよね。もう時代的にほとんどありえない時代に入りつつあったから
違和感は覚えたけどね。現場労働者に学ぶとか言いながら、Aさんも含め、ほとんど労働者にはなれなかったんだから、ポルポト的理想主義だったのかも。
529 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/03/13 00:32
>>528
コーム員かよw
530 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/13 00:50
>>527
うーん...。
オレも組織内の文章では読んだことがあるな。
‘70年代後半の恒常的武装闘争時代のことは。
連赤もそうだけど、こういう時って「自己犠牲の競い合い」に
なっちゃうんだろうね。
オレが読んだ文章では、
「我々の地区は野菜クズなどを使って食費を抑えているのに××地区はそういう姿勢が見られず小ブル的..」
というようなレベルでの批判合戦が頻発して、上層部が「コレはいかん」と
と反省して、’80年代の躍進に繋がっていったとか何とか..。
会社に入って同じような現象(オレの方がアイツよりも頑張ってるとか何とかいう
不毛な競い合い)を見ると唯物論って何だろう?って思うな。
532 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/13 11:20
→529
いや違うよ。予算会議って普通どこでもあるでしょ。
→530
その文章は俺も読んだけど、80年代ではそうなのと言うぐらいだったよ。
SSLもそんな体験してるメンバーはほとんどいなったしね。
しいて言えば再建時のS城さんぐらいじゃないのかな。
後は、再建時は正義感に燃える若者の集まりのようなオモムキだったし。
537 : 529[sage] 投稿日:04/03/13 18:44
>>532
失礼しました。あやまります。
役所の人間には仕事の上で腹が立つことが多いので。
534 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/13 15:29
>>527K沢さんとかA井さんとかいたよね。今は何やってんのかな。なつかしいな。
536 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/13 17:27
分派当時の高叛共闘は45~50代なんですね。彼等が支部を形成して依拠していた
名古屋最大の被差別部落も、今は改良住宅になってしまい面影はありません。
80年代にかなりのゴタゴタがあり、人が入れ変わったと言う噂は聞いたのですが
どうなんでしょうか?
エコアクション名護屋に、南部の指導部だったベ0さんやも0さん残っている
のでしょうか?
538 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/14 13:39
→537
活動してた頃は、思想のもとに生きていると思ってたから、仕事の種類も気にならず、色々なことも気にならなかったけど
今は家族のため、働いているようなもんだから、頭にくること、矛盾を余計感じるよ。
539 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/14 14:41
>>536そのお二人は90年代初めにやめた筈です。
540 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/14 14:57
>>レスありがとう。
も0さんの方は理論水準の高い、頭のよい方でした。べ0さんは温厚な中にも
闘志を秘めた方でした。
私の様に軟弱で脱落したものでなく、ゴリゴリの方でパラチェンに
反発してやめられた方は、どの様に今を生きてられるのでしょうか?
541 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/14 15:13
首都圏だけじゃなく、地方の地区の思い出話も出始めましたね。
>>540さんも引き続き色々お聞かせください。
その他関西地区とか、その他地方支部の思い出話もキボンヌ。
(80年代当時大阪以西に支部ってあったかな??)
542 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/03/14 17:22
>>536
そういえば開港阻止決戦の前段を飾る武装闘争に決起したTさんもいたな。
円便で交番襲撃という70年闘争を彷彿とさせる闘いだった。過激派公務員
キャンペーンのさきがけだったっけ
543 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/14 18:31
大0、冨0両君ですね。その後、3.26では愛知は管制塔戦士のYさん
だけでしたが5.20では大量の逮捕者を出しました。突撃隊ではなく
後方の部隊が襲撃され、女性が多数パクられました。
547 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/21 15:49
三里塚の小屋に夏休みになると詰めてたけど
三階の大広間にギューギューになって寝たものだ。
今あの環境で寝ろと言われても無理だな。
若いっつーのはすごいことだ。
尤も援農先でしこたま飲まされてバタンキューって感じではあったが。
548 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/21 17:16
俺も援農行ったけど、農家のオヤジはうまそうに冷えたビール飲んでた。
でも俺には何も飲ませてくれなかった。ふとんのすきま風を思い出す。
何かあの当時の農家、結構いい暮らししてたよな。
今から思うと、農家に体よく利用されただけじゃないか、との思いもある。
550 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/21 19:44
>>548
>でも俺には何も飲ませてくれなかった。
えーー??そう?
どこの農家でも「もう勘弁」ってくらい飲ませてくれたけどなぁ。
あんまり酔って小屋に帰ってくると、その日の総括が出来ないので
現闘の人が農家の人に「あんまり学生に飲ませないでヨ」と苦笑いしてたくらい。
>今から思うと、農家に体よく利用されただけじゃないか、との思いもある。
うーーん。
オレは逆に全くの素人を農作業に使ってくれる農家の寛大さにいつも恐縮してたけどなー。
正直労働力としてはあんまり期待されてなかったんじゃない?
我ながら「オレって役立たず」と思いながら作業してたよ。
551 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/22 22:10
労働力として重宝してたところはあったと思うよ。
でも一方そういう物にしてしまった責任も党派にはあったよ。
菱田のセイコウなんか最も割り切って使ってたんじゃーないの。
552 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/22 23:45
現斗作男論ですか・・。
553 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/23 00:53
少なくとも’80年代のある時期、現行の学生に対しては
労働力として農作業の手伝い→闘う農民に学ぶ
という意識からもう一歩進んで「農民をオルグする」ということまで
意識を高めろ、ということは求められたけどな。
ただ農作業手伝って、農家の人の昔の闘争の話聞いて
「空気入りました」だけじゃダメだと。
用水闘争の最中だったから、成田用水の欺瞞性を農民に訴えろ..
ということまで言われた。
インター・プロ青に対するヘゲモニー争いっていう意味もあったのかな?
当然18~19歳の小僧にそんなことできるはずもなくw
ただただ農作業に追われ一日が終わりますたw
逆に農家の奥さんに「たまにはお母さんに顔見せてあげなさい」とか
説教されたりして....。
554 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/23 01:00
ちょっと元気を失った学生を、柳川のオッカアのところに援農にやり
空気パンパンに入れてもらうように仕向けていたのは組織の方針だったのだろうか。
555 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/23 17:19
一番きつい援農先はどこでしたか?
556 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/23 22:31
70年代末のロートルさま達は何処へ?
2ちゃんには出てこないだろうな。
キツイ援農といえば、ごぼうだべ。
でも、愛○とか埼○の労共闘の若目のおねえさんと一緒に援農入れると、しあわせだったかも。
五右衛門風呂だったりしたし。
557 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/23 22:55
>>555
どこの家だか忘れたけど、ネコでカボチャを延々と運んだのは
本当にぶっ倒れるかと思った。
あとは代掻きだね。正直キツかった。>>556
五右衛門風呂だと何か見えたのでつかハアハア。
詳細キボンヌ。
でも小屋では女性メンバーも普通に着替えたりしていたので
逆に色々困ったw
558 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/23 23:22
正直あの頃は(80年初頭)農民に学ぶ。韓国民衆に学ぶ。被抑圧人民と連帯する。
色々言ってたけど、ゾレンとしての人民像でしかなかったかなーと思う。現実存在の人間はホント欲望とエゴの狭間で生きている普通の人々だったよ。
559 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/24 00:49
>>558
初めて援農に入った農家(付き合いも古く闘争にも熱心と見られてた家)のオッカアが
「オラァ学生が『軍事空港フンサーイ!』とか言ってるのを聞くと腹立つだよ
オラァこっから空港がどっか行ってくれればいいだけだぁ」と言ってるのを聞いて
軽くショックを受けました。
その頃の私には、そう言ってカラカラ笑いながらも闘争を続ける農家の人々の
「本当の強さ」には気がつきませんでした...。
561 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/24 23:17
>>558
あれは党の煽りにも大きな問題があったと思いますよ
私が知ってる限りでも「機関紙に書いてある三里塚農民像」をまにうけて
実際農民と会ったらズレがあって批判しちゃったとか、変なことをいって
しまったとかいってトラぶっちゃった学生が数人いましたからね。
しかも「オマエはおかしなこといった」みたいに地区に帰って批判される
ありさま。今考えれば党が「三里塚農民像」をかってに作り上げているのが
いけなかったのにと思います
562 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/25 22:09
→561
現実存在としての農民・労働者いろいろ。
今の自分は活動を離れて、今の矛盾をより強く認識できます。
でも、色々ある中でやっぱり闘う農民は素晴らしいことは
今も変わりありません。
石井武さんは素晴らしい農民活動家と思います。熱田さんも
息子夫婦は逃げ出し今だ闘っているのは頭が下がります。
それをつくったのもブントでしょう。それは頭が下がります。
しかし社会常識を学んだ人々で組織は構成されるべきでした。
565 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/03/28 20:48
援農=闘う農民に学ぶ、みたいなとこが強調されすぎてたような気がする。
農家の人は、学生さん、アリガトね。と単純に割りキッってたように
今では思う。当時はオレも、これが権力との闘いにつながる一手段だと
信じてたけど・・・
まあ、このスレらしくていいのかも・・・

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