いつも損していると思ってきた 憲法記念日の事

20180503有明憲法集会
5万人が集まった東京・有明の憲法集会(撮影:ムキンポさん
by 味岡 修

■ 「よそ行き」の憲法記念日

 政府から疎んじられてきたのは致し方がないとは思ってきたが、それにしても5月3日とは損しているな、と思ってきた。憲法記念日である。連休の最中にあって、休日とは意識されては来たけど、憲法の記念日という意識がうすかったのである。特別に意識が向かうには忙し過ぎるのである。そういうことがいつも頭によぎってはきたけれど、それ以上に憲法ということは馴染にくい存在なのだということもある。

 僕は5月3日の憲法記念日にはいつもそんなことを考える。憲法改正の動きが眼前に現れてきているのに、それに対する僕の側での自発的な意識、あるいは主体的な意識としては沸き上がるものがないというか、反応が鈍いということがある。憲法という言葉にはどこか余所行きの着物という言葉がついて回ってきた。

■ いつも憲法について考えてきた

 顧みれば僕は人以上に憲法については関心を抱いてきた。そう言っても過言ではない。僕が最初に起訴された事件は憲法に絡むものだった。1963年の憲法調査会の公聴会阻止闘争に関したものだった。これは安倍晋三の祖父の岸信介が作った憲法調査会(憲法改正のための調査会。1957年~1965年)の最終答申に反対する行動だった。

 それ以来、憲法については関心をいだき続け、『憲法の核心は権力の問題である』(御茶ノ水書房)という本も出した。けれども、もう一つ憲法というのは意識にピーンとこないところがあり、そのことを絶えず考えざるをえなかった。それでも憲法に対する人々の意識や感覚は幾分か変わってきていることも感じて来た。それは自己の中でも実感できることであり、よき兆候といえる。

■ 護憲 vs 改憲の前に―憲法の本質についての理解が進んでいる

 かつて憲法といえばすぐに「改憲」か「護憲」か、という議論が出てきて憲法とは何かという議論にはならない、といことがあった。自民党が改憲を党肯としてきたことが背景にあるのだが、最近は改憲をめぐる議論の中に憲法とはなにかということが強くでてくるようになってきた。「立憲」という言葉が出てくるようになったことはその表れだが、例えば、「安倍政権の改憲には反対だ」という声はそういうものの一つである。

 朝日新聞のアンケートによれば「安倍政権下での改憲には反対が58%」とあった。「9条に自衛隊明記」という安倍改憲案に対する反対も50%を超えているが、それ以上だったのだ。これは注目していいことである。憲法改正に最も熱心な安倍首相だが、その安倍が最も憲法のことが分かっていないという人々の意識(認識)の現れだからである。

 安倍の改憲の眼目は9条の改憲であるが、その場合に安倍の戦争観と9条の根本にある戦争観とずれている。改憲というよりは壊憲だということが出てくるのである。これも正しい認識である。

■ 憲法の理念に真っ向から対立する安倍の憲法理解

 憲法とは「政権(権力)に対する国民の命令である」、「権力の乱用を戒め、権力を縛る」ものであり、権力に対する国民の要求であり、その意志なのである。これは今では常識化しつつある憲法観だが、安倍はこれにもっとも程遠い憲法観しか持ち合わせていない。安倍の権力者としての所業は恣意的な権力を乱用するものだし、その事に無自覚な存在である。憲法として権力のあり方に反する存在なのだ。

 これは森友・加計学園問題で「膿を出さねばならない」発言に滑稽感を感じたことでもある。安倍の権力の乱用こそが、そしてそれをかばう官僚の権力の態様が問題なのに、そのことを関係ないふりをしている可笑しさなのだ。こうした安倍の言動をこりゃ「憲法に反する」行動と見ており。その日頃の言動の中に安倍の憲法理解の実際を見ているのだ。

 安倍にとって憲法は支配、つまりは統治の道具であり、手段であり、権力としての自己を制限し、縛るものではない。この安倍の憲法についての理解(認識)に対して人々は厳しい視線を向けており、批判的なのだ。「安倍政権での改憲反対」という人々の視線の背後に、人々の憲法についての意識(認識)の深まりがあることをみてとらなければならない。

■ 安倍による「自衛隊明記」でもたらされるもの

 こんな安倍に憲法をいじらせてはならない、という意識の深化を僕らは共有すべきである。自衛隊の憲法明記は「自衛隊違憲論」に終止符を打つという安倍の言う理由ではなく、本格的に国家の軍隊をという安倍の戦争観の実現であり、それによって9条に体現されてきた日本の国民の戦争観の無化を狙ったものだ。ここでは、憲法の権威を逆に安倍は利用しようとしている。

 彼の戦争観や軍隊観は憲法9条の戦争観や軍隊観(それに託されている国民のもの)とは相いれないのであり、そこを見ておかなければならない。憲法とは支配や統治の道具であるという憲法観を持つ安倍の、憲法の権威を利用しての政治的策である。安倍がやろうとしているのは、「自衛隊の憲法明記」によって現行の憲法9条がもっている自衛隊への制約を解体することである。

 本当のところが見えにくいのだが、僕らは安倍の国家観(憲法についての認識を含む)や戦争観を見続けることで、その狙いを見ぬかなければならない。歴史をふりかえれば、よく見えることであり、見えにくいことがあれば歴史にもどりつつそれをやらねばならない。憲法記念日にはそんなことを頭によぎらせるべきなのだろう。 (三上治)

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味岡 修(三上 治)souka
文筆家。1941年三重県生まれ。60年中央大学入学、安保闘争に参加。学生時代より吉本隆明氏宅に出入りし思想的影響を受ける。62年、社会主義学生同盟全国委員長。66年中央大学中退、第二次ブントに加わり、叛旗派のリーダーとなる。1975年叛旗派を辞め、執筆活動に転じる。現在は思想批評誌『流砂』の共同責任編集者(栗本慎一郎氏と)を務めながら、『九条改憲阻止の会』、『経産省前テントひろば』などの活動に関わる。