「小説三里塚」第五章 変革

戸村一作:著『小説三里塚』 目次へもどるこの小説について

第五章 変革

第36話 集結

三里塚第一公園 空港公団の動きにつれ、全学連の学生運動が目立って活発化した。まず、中核派が天神峰団結小屋に寝泊まりするようになった。
 続いて、旧ブントの森恒夫らが、東峰の堀越勇の旧家に住み込んだ。森恒夫は東峰からバイクに乗って、よく、戸田の住む三里塚までやってきた。彼はその後、連合赤軍事件で捕われ獄中縊死を遂げた。

 これは学生運動現地入りの、はしりだった。すると、どこからともなく単身、頭陀袋を肩に、団結小屋を訪れてくる男女学生も現われた。彼等は二日、三日と団結小屋に寝泊まりしては、慣れない手つきで農家の手伝いをした。あまり精を出し過き、翌日は腰も立たなくなる者もいた。その両手の爪は、雑草の渋で、真黄色にマニュキュアしたようになった。
 彼等は入れ替り立ち替り、やってきた。その中には学内セクトから代表として派遣されて、現地の下見聞にくる者もいた。天神峰団結小屋で日直する同盟員から、「得体が解らない」といわれて追い返される学生もいた。学生は熱心だった。学生証を出して身分を証明し、三里塚入りの来意を告げた。その熱意にほだされて、初対面の学生を泊める農家の者もあった。

 学生運動の動きは一見、セクトの先陣とヘゲモニーの争奪戦のように見えるところもあったが、彼等の心を動かした三里塚入りの発端は、まず国家権カに対決して不屈に闘う農民に対する魅カにあった。とともに、彼等のイデオロギーから見て、これを黙視できない正義感にあったのではなかろうか。
 それにしても日大・東大・反基地闘争を経て、全学連、全共闘運動の当然行きつくところが、三里塚闘争ではなかったか。彼等の動きは日共・民青などとはおよそ対照的であった。民青が政党の指令で機械的に動かされるに反し、全学連運動は統一力を欠くようにも見えた。――が、三里塚では不思議なほど、セクト間の内紛はなかった。思想、信条を異にしたとしても、戦線では行動をともにする共同性を保っていたことは事実だった。
 「三里塚では学生の内ゲバはないかね」とは、戸田がよく訊かれる言葉だった。「ない」というとみんな、「不思議だな!」と首を傾げる。そんなとき、戸田は、党派闘争を「内ゲバ」と理解していなかったから、「内ゲバ」という言葉を聞かされるのは特に耳障りだった。「内ゲバ」とは岡目八目のいう言葉であり、マスコミなどの使うものだった。

 日共・民青の執拗な「トロ排除」とデマゴギーの中にも、学生たちは着々と農民の信頼をえていった。彼等の真摯で謙虚な態度と熱情が、農民に買われた。
 彼等は便乗主義者ではなく、あくまでも自己の思想に忠実であり、その行動に責任のあることを自覚していた。その頃、マスコミからもらった三里塚闘争の代名詞が、「労農学共闘」だったのは、故なきことではなかった。
 大学闘争ではコッペパンと牛乳で、煎餅蒲団に寝て暮らしていた彼等が、三里塚にきて見ると、澄んだ空気、新鮮な野菜や卵、飯があって、青白かったその頬にも血の気がさしてきた。やがて、三里塚の風土は彼等の骨格をも逞しく鍛え上げていく。

三里塚の公安私服刑事 野良仕事をしていた武治が人の気配を感じた。畝間から、つと立ち上がって、「あれは成田署の刑事じゃねえか」といった。その言葉に傍で草むしりをしていた学生が思わず立ち上がると、写真機を持った男が、突然学生に向けてパチパチとシャッターを切った。

 成田署や成東署の私服が、学生を追って入り込んだのだ。東大や日大闘争などで指名手配をうけた者が、三里塚に逃げ込んだということで、最近は農家の庭先にまでも私服が徘徊した。誰が見てもそれと判るのが私服で、その眼つきや態度、口のきき方まで同じだった。中には長髪のジーバンで一見学生スタイルの者もいて、うっかり声をかけるとそれが私服だったりすることがあった。

 彼等は今日は木の根にやってきた。背広、ジャンバーに戦闘帽と、色とりどりの服装で、三々五々農道を歩いていた。手にはトランシーバーや写真機を持っていた。犬のように匂いを嗅いで歩くその職業柄が、いつとはなく身に着き、その人柄まで別世界の人のように作り変えていくのだろう。

 三里塚・援農風景 最も対照的で奇妙なものが、何をおいても学生と私服だった。純情と陰険、相矛盾する二つの異相をここに見ることができる。

 日増に増える学生の現地入りにつれて、また増えるのも私服の数だった。私服は道端を歩く学生まで、顔写真を撮った。ある学生は路上でばったり私服の群とぷつかり、カメラを向けられたから、「僕には肖像権があるんだ。無闇に人の写真を撮るな」と、くってかかった。すると、私服は矢庭に彼を取り囲み、一人が彼を羽交絞めにして真正面から顔写真を何枚も撮った。
 彼等は反対派の農家を訪ね、学生のいるのをたしかめて帰っていく。この頃は私服も団結小屋に用事もないのに立ち寄り、まるで慣れ慣れしく学生たちに話をしかけてくる。そして、「火に気をつけなさいよ。風邪をひくなよ」といった。彼等はにべもなく、追い払われた。
その後、各団結小屋の周囲は松丸太の頑丈なバリケードで囲われた。団結小屋の前には、奇妙な看板が目立った。
 「犬と私服は立入り禁ず」
 それをキラリと横目で見ながら、しらばくれて過きていく私服もいたが、中にはバリケードに近づいて、その隙間から中の様子をジロジロと探っていく者もいた。

 これとは別に私服と入れ替りに徒党を組んで訪ねてくる、一群の若者たちがいた。彼等の腕にはいずれも音地に白く「民青」と染め抜かれた腕章が巻きつき、肩からショルダーバッグを吊るしたり、ナップザックを背負ったりしていた。
 彼等は反対同盟の農家を家庭訪問して歩いた。「トロツキスト排除」を説伏する民青のオルグだった。路傍の電柱や塀にはやたらと「トロ排除」のステッカーが貼り巡らされ、戸別訪問をして隈なくビラ入れをして歩いた。
 「トロを排除して民主勢カを結集しなけれぱ、空港反対の勝利はない」
 中には心動かされ、「そうかな……」と思う者もあった。しかしほとんど彼等は至るところで反対同盟員の門前払いをくい、差し出すパンフさえ突き返される場合が多かった。それでも懲りず、彼等は「トロ排除」を止めようとはしなかった。「トロ排除」は「空港反対」よりも、彼等にとっては重大であるように見えた。その拠点は古込にある石井幸助の「日本共産党遠山支部」だった。

 現地三里塚には日毎に学生、労働者の数が増していった。天神峰には中核、東峰にはブント、朝倉には第四インター、大清水には社青同解放派などが、それぞれ団結小屋を造って常駐していた。中には部落の公民館に住み込む者もいた。人里離れた森の中や畑の中にも、団結小屋が建った。電燈がなかったので夜はランプや蝋燭の燈火で、ガリ版を切ったり、本を読んだりした。朝になると部落に手摺りのパンフを配って歩いた。
 そして、反対同盟の農家へ援農に行く。ところが雑草のつもりで引き抜いたものが、落花生だったりした。
 農民はそれを見て、腹を抱えて笑った。そして彼等の知らぬ間に、そこへ種を下ろしておくのだった。
「おめえらは落花も雑草も知らねえで、農民運動やるちゅうのか」と、ひやかされ、赤面して思わず頭を掻く者もいた。

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