by 味岡 修
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安倍政権の学者への共通認識が露呈した
こんなところから批判の矢が飛んでくるなんて、思わぬかたちで「総理」の座を手に入れた菅には考えていなかったことだろう。「学術会議会員の任命」である。新内閣発足をめぐる忙しさの中で、この任命事なんて、たいして気にも留めずにハンコをおした、つまり決済したのである。推薦名簿などは見ないで、杉田某なる官邸官僚の作成した任命書にハンコを押したのだ。
おそらくは事の重大さも分からずに軽率にやったことだろうが、これには安倍政権の時代に、政権に批判的な、ということは安保法制や共謀罪、あるいは特定秘密保護法に批判的な学者などを、独立機関とはいえ政府の機関に入れるなという考えが政権内で共有されていたのだと思う。また、学術会議が軍事研究に参加しない決議をしたことを彼らは根に持っていたのだろう。
要はこの任命劇も、安倍が安保法制や共謀罪の成立を強引に進める背後で、政府から独立的な機関にも介入し、それを政治的に支配する画策をすすめてきたこと、NHK人事への介入、検察官人事への介入などの一環として、学術会議への介入を画策してきた流れの一つだったのだと思う。
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これについては連日、多くの新聞で批判が繰り返されているし、まともな説明もできない菅首相の姿を露呈させている。彼にとっては「飛んで火に入る夏の虫」という状態なのだろうが、それは彼が自分で招き寄せたものである。
任命拒否の違憲・違法性の再確認
僕らはここでまず、これが非民主的な自由の侵害であり、憲法違反とでもいうべき行為であることを明瞭にすべきだ。任命までの経緯を言わなくても、そもそもこうした行為は法に反することで、憲法に違反することであり、菅は謝罪し、任命をし直すべきである。
日本学術法はその会員は推薦された候補を任命する、とあるが、これは文字通り、首相は推薦された会員を形式的に任命するだけのものだ。かつてその旨の国会答弁もあるが、日本学術会議のような科学者(学者)が政府の機関を創る時に、政権(権力)の関係において独立性を保障されるべきことは、もちろん戦前の反省もあるだろうが、憲法の「学問の自由を守る」という規定と関係したことだ。
つまり憲法精神としての学問の自由(第23条)を、具体的な法律で体現される形で出てきたのが「日本学術法」なのだ。だから任命が形式的なのは、学問の自由の保障(権力の介入を縛り、制限する規定)の具体化であり、大学の学長などの任命を文部大臣が形式的に行うというのと同じである。
安倍-菅の政治手法が学者と摩擦する根拠
安倍内閣は憲法(憲法精神)としてある政治理念や哲学を、それを体現した法の解釈の変更で変える事、具体的には人事を持っての政治支配で憲法の自由主義を破り続けてきた。それは違法行為であり、いうなら憲法違反をやってきたのだ。今回の任命劇はまさにそのことを露呈させたのである。
こうした背景には安倍や菅が憲法や法が権力を制限し、縛るものだという考えを否定し、政治(統治)の道具、正確には統治主体(権力)のための道具と考えることがある。憲法改正はそのような方向でなされようとするが、それを法解釈の変更でやろうとする。彼等が憲法学者などを目の敵にし、御用学者に仕立てようとする根拠はそこにある。
おそらく安倍や菅は自分は自由主義の政治家、またはその系譜にある政治家と思っているのだろうが、それは国家主義的な範囲における自由であり、その本来の意味である「統治権力の制限」という、自由主義や民主主義の共通の認識や理解に立ってのことではない。今回の事態はそれを示したといえる。
科学は自由の保障がなければ成立しない(コロナの教訓)
新型コロナウイルスの出現の中で僕らは情報や科学の重要さを認識した。それは時の権力の政治的思惑からの情報や科学を操作、介入を否定することである。そこにしか、僕らの情報や科学に対する信頼は生まれない。僕らが新型コロナウイルスについて知るのは情報によってであり、対応する判断をえるのは科学的知によってである。もちろん、情報や科学も制約のあるものだが、僕らがコロナ問題で判断し行動するものが得られるとしたらそれがさしあたってベストなのだ。
その時に、政権の政治的思惑からの介入が一番に問題であり、事態を歪めるのである。情報が事実を伝えることとしてあり、科学が科学として機能するために重要なのは、それらが自由という思想(理念や哲学)で支えられてのことだということだ。情報が情報としてあり、科学が科学として機能するには自由があってはじめて可能なのだ。自由な精神や哲学こそが情報や科学の自立性を保障する。情報も科学も自由がそれを可能にするが、これは普段に権力の支配、介入という支配と闘うことであり、憲法(自由)はそのようにして守られる。
だが、安倍や菅が学術会議について考えていること、それを見ると彼等は自分の政治について批判的なものを内心、面白くないと思っているのだろうと思う。「学問の自由」の意義などまともに考えたことがなかったのだと思う。これは情報や科学について、またそれとの政治的関係について、何も考えていないと同じではないか。彼等にとってそれは政治(統治行為)の道具にすぎないのだ。
昔の友人から、「大管法闘争のことを思い出す、今の学者は反撃できるのだろうか不安である」というメールをいただいたが、多くの学者たちが反対の声明を出している。彼等も一様に民主主義に反すると述べている。僕は異論はないが、彼等があらためて自由のことを考え、これは自由(学問の自由も含めた)をめぐる闘いだと考えて欲しいと思っている。自由は憲法の条文の中にも、僕らの身上のなかにあるものではない。体制や権力との闘いの中でのみあることなのだから、そのことを不断に自問し、抵抗をし続けて欲しいと思う。
説明責任は民主主義と不可分である
出典:しんぶん赤旗
今回の任命劇はいろいろの事を見せてくれた。それは菅が受け継ぐと称している、安倍政治の実態を明るみにしたことだ。理不尽というか、政治支配のための数々の所業、それも追及されると政治説明どころか、論点をすり替えたり、隠したりする。
今回の任命劇は自己に批判的な学者は排除し、更には学術会議への介入によって、そこに政治的支配の手を延ばそうとすることなのだが、「総合的・俯瞰的」に判断したと説明している。こんな抽象的な説明では誰も分からない。だが誰もが知っているのだ。なぜ推薦された候補の6人が排除されたのか。
民主主義とは手続きである、と言われる。絶対的手続きともいわれるが、政治説明は手続きと不可分である。菅よ、みずからを自由と同じように民主主義を信奉している政治家というなら、任命の手続きについて説明してみろ。
(三上治)
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