柳一家はいつも幸福に満たされていた、光一の心はいつも平安であった、かれの一番好きなのは朝である。かれは朝に目をさますと寝床の中で校歌を一つうたう、それから床をでて手水(ちょうず)をつかい茶の間へゆくと父と母と妹が待っている。
「お兄さんは寝坊ね」
妹の文子(ふみこ)はいつもこうわらう、兄妹の規約としておそく起きたものがおじぎをすることになっている、光一は毎日妹におじぎをせねばならなかった。癪にさわるが仕方がない。
茶の間にはさわやかな朝日が一ぱいに射しこむ。飯びつやなべからあがる湯気はむつまじげに日光と遊んでいる、父はにこにこしてふたりの子を見くらべる、母は三人のお給仕にいそがしく自分で食べるひまもなかった。かの女は光一と文子の食力を計算する事を決してわすれなかった、今日はいつもより多く食べたといっては喜び少なく食べたといっては病気ではないかと心配する。大抵は光一は五杯の飯を食べるが文子は三杯であった、5対3ではあるが、光一の方はスピードが速いのでほとんど同時におしまいになる、それから一緒に家をでる。
「おまえ後からおいで」
「兄さんは男だから後になさいよ」
この争いは絶ゆることがない、二、三年前までは一緒に肩を並べていったものだが、このごろではふたり揃うてゆくのはきまりが悪い。特に光一に取っては迷惑至極であった。
「きみの妹は綺麗だね」
こう友達にいわれてからかれはたとえ親父の葬式の日でも妹と一緒には歩かないと覚悟を決めた。
だがかれは妹が好きであった、妹はすらりと姿勢がよく、おさげの脳天に水色のちょうちょうのリボンをつけているが、それが朝日に輝いていかにもかわいらしい、かれはまた文子の長いえび茶のはかまやその下から見えるまっすぐな脚と靴の恰好が好きであった。文子は洋服よりも和服が似合う。
文子はまただれよりも兄さんが好きであった、野球試合のあるときには彼女はいつも応援旗を持ってでかけた、兄さんが負けたときには家へ帰って夕飯も食べずに寝てしまうのでいつも母にわらわれた。
そのくせふたりはおりおり喧嘩をした、文子の一番嫌いなことは顔がふくれたといわれることである。
「おい、おまえの頬っぺたがだんだんふくれてきたね」
「いいわ」
「後ろから見るとほっぺたが耳のわきにつきでてるぞ」
「いいわ」
「ぼくが八百屋の前を通ったらおまえの頬っぺたを売ってたよ、買ってこようと思ったら丸いなすだった」
「いいわ、兄さんだって鼻の先にニキビがあるじゃないの?」
「これはじきなおるよ」
「口のはたに黒子(ほくろ)があるから大食いだわ」
「食うに困らない黒子なんだ」
喧嘩のおわりはいつも光一が母に叱られることになっている。
だがふたりのむつまじさはよその見る目もうらやましいほどであった。文子は心の底から兄を尊敬していた、というのはかの女は学校から帰って兄に英語や漢文の下読みをしてもらう、それには一つもあやまりがないからである。かの女の友達もことごとく光一を好きであった、かの女等が文子のもとへ遊びにくると、文子は兄の書斎を一覧させる、大きな書棚に並べられた和洋の書籍を見てかの女等はいずれも驚歎の声をあげる。兄がほめられるのは文子に取って無上の喜びであった。
ある日文子は雑誌を買おうと思ってがま口を懐にして外へでた、雑誌屋の店頭に男女の学生が群れていた。この店は二年前までは至極小さな店で文房具少しばかりと絵本少しを並べていたのだが、見る見る繁昌しだして書籍や雑誌がくずれるまでに積まれてある。やせた神経質らしいおかみさんはひとりのいつも眠そうにしている小僧をひどくどなりつけてお客の手先と商品とを監視させているが、それでも毎日一冊ぐらいは盗まれるのである。
学生の中には毎日決まって雑誌を読みにくるのがある、それが一冊でも買うのかと思うと一冊も買わない、二時間も立って一とおり読みおわると翌日また別なのを読みにくる、こういうのはただ読んでゆくだけだから罪が軽いが、ひどいのになると五、六人団結してあれやこれやとひっくりかえしてその混雑にまぎれてふところへかきこむ。大抵はその顔を知っているものの、ことをあらだてるとかえって店の人気がなくなる。そこでおかみさんの癇癪が小僧の頭に破裂する。
「おまえがぼやぼやしてるからだよ」ぴしゃりッ。
小僧だって朝から晩までどろぼうのはり番をするということはなかなかつらい、かれは十七になるが、十三か十四ぐらいにしきゃ見えない、毎日毎日頭をなぐられるから上の方へ伸びないのだとかれ自ら信じている。
文子は新刊の少女雑誌と英語の雑誌を買った、それから書棚を見ると漢文の字典があったのでそれを引きぬいた、それでやめにしようと思ったがこのときかの女は現代名画集というのを見た、それは叢書(そうしょ)の第一巻でかの女がつねにほしいほしいと思っていたのであった。かの女はそれもひきぬいておかみさんにいった。
「これだけでいくらですか」
おかみさんはこれが柳家の令嬢だとは気づかなかった。
「五円六十銭です」とかの女はいった。
「そう?」
文子はがま口をあけて銀貨を掌に数えた、一枚二枚三枚……。五円二十銭しきゃない。
「あら、たりないわ」
文子は顔をまっかにしていった、かの女は周囲に立っている男女学生がみな自分の方を見てるような気がした。おかみさんは冷ややかに文子を見やった。
家へ帰ってお母さんにお銭(あし)をいただいてこようかしら、と文子は考えた、だがそのあいだにこの本が他人に買われると困る、かの女はまったく途方にくれた。もしかの女が私は柳の娘ですから宅へ届けてくださいといったなら、おかみさんは二つ返事で応ずるのであった、ところが文子にはそれができなかった。
「いくらお持ちなの?」とおかみさんがいった。
「四十銭足りないのよ」
「へえ」
おかみさんはくるりと横を向いた。とこのときひとりの女学生が文子に声をかけた。
「文子さん、私だしてあげますわ」
文子はその人を見た、それはかの女が小学校時代の上級生で染物屋の新ちゃんというのである、新ちゃんは桃色の洋服を着て同じ色の帽子をかぶり、きらきらした手提げ袋から銀貨を取りだした。
「ありがとう……でもいいわ」と文子はいった。
「いいのよ、四十銭ぽちなんでもないわ」
「そう? それじゃ私すぐお返しするわ」
「あらいいわ」
文子は新ちゃんに四十銭を借りて本と雑誌を紙に包んでもらった。
「ではねえ新ちゃん、私の家へちょっとよってくださらない? お金をお返しするから」と文子はもう一度いった。
「いやねえ、あなたは水臭いわ」
文子は水臭いという意味がわからなかった。
「でもお借りしたんだから」
「一緒に散歩しましょう」と新ちゃんがいった、ふたりは大通りからはすの横町に出た、そこの材木屋の材木の上に大勢の子供が戦争ごっこをしていた、それから少しはなれて生け垣の下で三人の学生がなにやらこそこそ相談をしていた。
「いやだ」とひとりがいう。
「おれもいやだ」と他のひとりがいう。
「おれにまかせろ」と背の高いひとりがいう、それはろばというあだ名のある青年であった。かれらは新ちゃんと文子を見るやいなやだまった。
「なにをしてるの?」と新ちゃんがいった。
「ちょっとおいで」とひとりがいった。新ちゃんは三人のまどいにはいった。四人は顔をつきあわしてなにか語った。文子はろばをはじめとして他のふたりの少年とはあまり親しくなかったのでなんとなき不安を感じながら立っていた。
「いきましょう」と新ちゃんは文子に近づいていった。
「私の家へいってくださる?
「ああおよりするわ、でもなにか食べてからにしましょうよ」
「なにを食べるの?」
「私ね、おしるこを食べたいわ、それともチャンにしましょうか」
「チャンてなあに」
「支那料理よ」
「私食べたことはないわ」
「おいしいわ」
文子は学校で友達から支那料理のおいしいことを聞いていた。どんなものか食べてみたいと母にいったとき、母はそんなものはいけませんと拒絶した。
「だが食べてみたい」
好奇心が動いた。
「でも私お金が……」
「私持ってるからいいわ」
「いけない」と文子は猛然思い返した、母に禁ぜられたものを食べること、他人のご馳走になること、これはつつしまねばならぬ。
「私、叱られるから」
「叱られる?」
新ちゃんはにやにやとわらったがやがてまたいった。
「じゃよしましょうね」
ふたりは活動写真館の前へ出た、日曜のこととて館前は楽隊の音にぎやかに五色の旗がひるがえっている。新ちゃんは立ちどまった。
「はいってみましょうか、私、切符があるわ」
「ああちょっとだけね」
文子はこのうえ反対ができなかった、かの女は五、六度女中や店の者と共にここへきたことがあるのだ。写真を見たとて母に叱られはしまい。こう思った。
新ちゃんと文子は暗がりを探って二階の正面に陣取った、写真は一向面白くなかった、がだんだん画面が進行するにつれて最初に醜悪と感じた部分も、弁士の黄色な声もにごった空気もさまでいやでなくなった、そうして家庭や学校では聞かれない野卑な言葉や、放縦な画面に次第次第に興味をもつようになり、おわりには筋書きの進行につれてないたりわらったりするようになった。
「面白い?」と新ちゃんはいくどもきいた。
「面白いわ」
ぱっと場内が明るくなるといつのまにかさっきの三人が後ろにきていた。
「出ようよ」とひとりがいう。
「うむ」
新ちゃんと文子も二階を降りた。
「こっちが近い」
ひとりがいった、一同は路地口からどぶいたをわたった、そうして、とある扉(ドア)を押してそこから階段を昇った、昇りつめるとそれは明るいガラス戸のついた支那料理屋の二階であった、向こう側の呉服屋その隣の時計屋なども見える。
「私帰るわ」と文子はおどろいていった。
「いいじゃないの? ワンタンを一つ食べていきましょう」と新ちゃんがいった。
「でも……私」
「お金のことを気にしてるんでしょう、かまわないわ、この人達はねいま材木屋の前でお金を拾ったんですとさ、いくらおごらしてもかまやしない、ねえろば」
「ろばろばというなよ」とろばがいった。
新ちゃんはだまってがま口をろばになげつけた。銀貨がざらざらとこぼれた。
「いくら使ったえ」と他のひとりがいった。
「二人前の切符代だけもらったよ」と新ちゃんがいった。
「拾ったお金で活動を見たの?」と文子は仰天していった。だれもそれには答えなかった。
「帰らして頂戴」と文子はなき声になった。
「帰ってもいいよ、どうせおれ達の仲間になったんだから、帰りたければ帰ってもいい」
「私が仲間?」
「おまえ達はだまっておいで」と新ちゃんは男共を制した、そうして文子にこうささやいた。
「こわいことはないのよ、あの人等はばかなんだから……でも文子さん、あなたも同じがま口の金を使ったんだからお友達におなりなさいね、そうしないとあの人等はお宅へいってお母さんになにをいうか知れませんよ、ねえ、毎日でなくても、たまにちょいちょい私達と遊びましょう、ね、お母さんに知れたら困るでしょう」
文子は呼吸もできなかった、実際すでに不正な銭のご馳になったのである、こんなことが母に知れたら母はどんなに怒るだろう、怒られても仕方がないが、母が歎きのあまり病気になりはしないか、それからまた兄さんは……兄さんの名誉にかかわることがあると……。
哀れ文子は四苦八苦の死地に陥った、かの女は去るにも去られなくなった。と階段の音が聞こえてひとりの学生が現われた。
「やあ」
文子は顔をあげた、それは兄の友の手塚であった。かれはロシアの百姓が着るというルパシカに大きな縁のあるビロードの帽子をかぶっていた。
「どうしたの? 文子さん」とかれはいった。文子は手塚の腕にすがりついてなきだした。
「お前達はどうかしたんじゃないか」と手塚はなじるように一同に向かっていった。
「なにもしないよ」とろばがいった。
「悪いことを教えると承知せんぞ」
手塚の語気はますます鋭い。
「いやにいばるのね」と新ちゃんがいった。
「だまってろ」と手塚はどなりつけて文子の涙をハンケチで拭いてやり、
「心配しなくてもいいよ、さあ僕と一緒に行きましょう」
手塚につれられて文子は外へ出た、文子は歩きながら一伍一什(いちぶしじゅう)を手塚に語った。
「わかってるよ」と手塚はいかにも侠客のような顔をしていった。
「あいつらはね、あなたをわなにかけて銭をゆすろうて計略なんだ、ぼくが引きうけていいようにするから安心していらっしゃい」
「でも私新ちゃんに四十銭と活動のお銭(あし)を返さなきゃならないわ」
「いいよ、それも僕が引きうけたから」
手塚は文子の家近くまで送ってきた。かれはわかれぎわにこういった。
「兄さんに秘密だよ」
「ええ」
読者諸君! 世に不良少年少女というものがある、かれらとても決して生来の悪人ではないのだ、だがそれらの多くは意志が薄弱で忍耐力がなく、健全な道徳観念がないところからわがままになり野卑になり学校が嫌いになり、そのかわりに娯楽を求める念が盛んになる、上品な娯楽は人間の霊(たましい)の慰安になるが、下等な娯楽は霊を腐食する黴菌(ばいきん)である。
読者諸君! 諸君は決してゆだんをしてはならぬ、諸君の前にいろいろな陥しあなが口をあいて待っているのだ、諸君は右を見ても左を見ても諸君を誘惑するものが並び立っているとき、自らの理性に訴えて悪をしりぞけ善を採用せねばならぬ、諸君の思慮にあまる場合にはそれを隠さずに父母や兄や姉や学校の先生に相談せねばならぬ。
災難や過失は何人もまぬかれることはできない、が、その場合に父母に叱られることをおそれたり、先生にわらわれることをおそれたりして浅墓(あさはか)な自分の知恵で秘密にことを運ぼうとするとその結果たるやますます悪くなるばかりである。
もし文子が早くも父母もしくは兄の光一にすべてを打ちあけたなら、災難はその日かぎりで無事にすんだのである。人の子たるものは父母に対して秘密を作ってはならぬ、人の弟や妹たるものは兄や姉に対して、そうして人の弟子たるものは師に対して秘密を作ってはならぬ、秘密を打ちあけることははずかしいが、打ちあけなければ罪が次第に深くなるのだ。秘密を打ちあけたとて決してそれをしかったりわらったりするような父母兄弟や先生はこの世にない。
読者諸君! 少年時代に一番つつしまねばならぬのは娯楽である。娯楽にはいろいろある、目の娯楽、耳の娯楽、口の娯楽、それらよりももっとも有益なのは心の娯楽である。
活動写真、飲食店、諸君がいつも誘惑を受けるのはこれである。娯楽には友達が必要である、諸君はこのために活動の友達や飲食の友達ができる。不良気分がここから胚胎する。そのうちに奸知あるもの、良心にとぼしきものはこの娯楽を得るために盗賊を働く、ひとりでは心細いから相棒を作る、弱いものを脅迫して金品をまきあげる、他の子女を誘惑して同類にひっこむ、一度(ひとたび)この泥田に足をつっこむともう身動きができなくなる。
読者諸君! 孝子は巌牆(がんしょう)の下に立たずといにしえの聖人がいった、親のあるものは自重せねばならぬ、兄弟姉妹のあるもの、先輩のあるものは自重せねばならぬ、いやしい娯楽場へ足をふみ入れて生涯をあやまることは愚のきわみである。
さて文子はどうなったか、文子の兄光一はそのころ野球にいそがしかった、かれの学業はますます進み同時に野球の技術がすばらしいものになった。かれの身の丈は五尺四寸、腕は鉄のごとく黒く、隆々とした肉が肩に隆起し、胸は春の野のごとく広く伸びやかである。かれの母はいつもかれを見やって微笑した。
「私より首一つだけ大きくなった、この子はしようがないね、去年の着物がみんな間にあわなくなった」
こうこぼしながらも心中の喜びは抑えきれない。それと同時に文子も次第に美しくなった、が文子の顔に何やら一点の曇りがたなびきはじめた。
「おまえどうかしたのかえ」と母がきく。
「なんでもないわ」と文子はわらった。だが文子は決してなんでもなくはなかったのである。かの女は例の一件があってからその秘密を手塚ににぎられてしまった。もしかの女が家へ帰って母に打ちあけたなら、こんな苦しみはせずにすんだのである。
手塚は一旦は光一に忠告されて改心したもののそれはほんのつかの間であった、かれはどうしても娯楽なしには生きていられなかった、活動写真で低級な演劇趣味をふきこまれたかれは自分で芝居をして見たくなった。かれは活動を見ては家へ帰ってそのまねをした、もしかれが恥を知る学生であったなら、本当の正しき魂がある少年であるなら、国定忠治だの鼠小僧だの、ばくち打ちやどろぼうのまねを恥ずべきはずだが、かれにはそんな良心はなかった、かれはただ人まねがしたいのである、実際かれはそれがじょうずであった、かれはしゃものような声で弁士の似声(こわいろ)を使ったり、また箒を提げて剣劇のまねをするので女中達は喜んで喝采した。
「坊っちゃまはお上手でいらっしゃること」
「男ぶりがいいから役者におなんなさるといい」
この声々を聞くと手塚はすこぶる得意であった、それと同時に母は鼻の下を長くして喜んだ、かれの母はすべて芸事が好きで一月に三度は東京へ芝居見物にゆくのである。
父は患者をことわっておおかみのような声で謡(うたい)をうたう、母は三味線を弾いてチントンシャンとおどる、そうして手塚は箒をふるって、やあやあ者共と目玉をむき出す。大抵この場合に箒で斬られる役になるのは代診の森君や車夫の幸吉である。だが森君も幸吉もそうそうはいつも斬られてばかりいられぬ、たまに癇癪を起こして国定忠治を縁側からほうりだすことがある。そこで手塚の機嫌が悪くなる、したがって奥様も、だんな様も一家が不機嫌になる。
それやこれやで家の中ばかりの芝居は面白くなくなった、そこで手塚は同志を糾合して少年劇をやろうと考えた。幸いなことにろばの父は製粉工場の番人である、この工場は二年前に破産していまではなかば貸し倉庫のようになっている、その一部分だけでも優に芝居に使用することができる。
手塚は毎日そこへ出張して芝居の稽古をした、かれは監督であり座長であった、ろばは敵役(かたきやく)や老役(ふけやく)を引きうけた、新ちゃんは母親やお婆さんになった、若くてきれいで人気のある役は手塚が取ったが、ここに一番困ったのは若い娘に扮する女の子がないことである、手塚はそれを文子にあてた。
「いやよ、私いやよ」と文子は顔をまっかにして拒絶した。
「いやならいいよ、ぼくはあなたのお母さんにたのんでくる、これこれのわけで文子さんはぼくらの仲間になったのだからってね」
文子は当惑した、母に秘密をあばかれては大変である。
「じゃ私やるわ」
毎日集まるたびに一同は何か食べることにきまっていた、うなぎやてんぷら、支那料理、文子はいろいろなものをご馳走になった、それらの費用は大抵手塚からでた。だが手塚とても無尽蔵ではない、かれも次第に小遣い銭に困りだした。
「文子さん、どうにかならないか」
毎日人のご馳走になってすましているわけにゆかない、文子は母に貰った小遣い銭を残らずだした、二、三日すぎてかの女は貯金箱に手をつけた、それからつぎに本を買うつもりで母をだました。そうしなければ秘密をあばかれるからである。
こういう状態をつづけてるうちにかの女はだんだんこの団体の不規則で野卑な生活が好きになった、母の前で行儀をよくしたり、学校の本を復習したりするよりも男の子と遊んで食べたいものを食べているほうがいい。
文子の母はいままでとうってかわった文子の態度に気がついた。かの女は文子をきびしくいましめようと思った、だがその原因をきわめずにいたずらにさわぎを大きくしてはなんの役にも立たぬ、これにはなにか力強い誘惑があるにちがいない。
こう思うものの悲しいかなかの女はそれを探偵すべき手がかりがないのであった、父にいえばどんなに叱られるかしれない、十六にもなれば人の目につく年ごろだからめったなことをして奉公人共に後ろ指をさされることになると、あの子の名誉にもかかわる、さりとてうちすておくこともできない。
わが子を叱りたくはないが、叱らねば救うことはできない、母は思案に暮れた。かの女はとうとう光一の室へいった。
「光一、おまえに相談があるんだが……」
「なんですか、なにかうまいものでもぼくにくれるの?」と光一は微笑していった。
「それどころじゃないよ、文子のようすがこのごろなんだか変だとおまえは思わない?」
「変ですな」
「そうだろう」
「ほっぺたがますますふくれる」
「そんなことじゃない、学校の帰りが大変におそい」
「居残りの稽古があるんです」
「でもね、お金使いがあらいよ」
「本を買うんです、いまが一番本を買いたい年なんです、ぼくにも少しください」
「おまえのことをいってるんじゃないよ、本当に文子が本を買うためにお金がいるんだろうか」
「そうです」
「でも毎晩なんだか手紙のようなものを書いてるよ」
「作文の稽古ですよ、あいつなかなか文章がうまいんです」
「このあいだ男の子と歩いているのをお松が見たそうだよ」
「男の子とだって歩きますよ、ぼくも女の子と道づれになることがある、隣の珠子(たまこ)さんが犬に追われたとき、ぼくはおんぶして帰ってきた」
「おまえはなんとも思わないかね」
「だいじょうぶですよお母さん、文子は決してばかなことはしませんよ、ぼくの妹です、あなたの娘です」
「そうかね、それならいいが」
母は安心して室をでた、あとでひとり光一はテーブルにほおづえをついて考えこんだ、文子が毎日、晩くに帰る、たまに早く帰っても道具をほうりだしたままどこかへでてゆく、それについては光一も面白からず思っている、のみならず、このごろはしみじみと話をしたこともない、母の言葉によってさてはなにかよからぬことがあるかも知らぬ、と思ったものの、母に心配をかけるのはなによりつらい、できることなら自分ひとりで事の実否をきわめてみたい、そうして不幸にも妹に危険なことがあるなら母にも父にも知らさずに、自分ひとりで万事を解決してやろう、こう思ってわざと平気を装うて母に安心さした。
だが文子ははたして悪魔の手に落ちたであろうか。
光一は、じっとそれを考えつづけるうちに階下の方で文子の声がした。
「ただいま!」
光一は立ちあがった、二階を降りると文子は靴をはくところであった。
「文さん」と光一は呼びとめた。
「なあに?」
「どこへいくの?」
「お友達が待ってるのよ、テニスよ、今日は復讐戦よ、大変よ」
「ちょっと待ってくれ」
「だって、もうおそいんですもの、ああ暑い、私汗がびっしょりよ」
かの女は風呂敷包みをほうりだしてさっさとでていった。光一は風呂敷包みを持ったまましばらく妹の後ろ姿を見送ったが、急に二階の書斎へかけあがった。かれは風呂敷包みを解いた、中から歴史や地理や図画や筆箱などがでた、かれはそれらを一つ一つしらべると雑記帳の間から一封の手紙が落ちた。封筒にはただ「文子様」と書いてある。
かれは中をひらいた。
「一昨日逢って昨日逢わなかった、いつものところへ来てください、今日は大事な相談があります。文子さん……千三より」
「あっ」とばかりに光一は思わず声をあげた。
「千三! 千三! 青木か、ああ青木が……あのチビ公が、畜生!」
茫然としりもちをついた光一の顔は見る見る火のごとく赤くなった。畜生! 恩知らず! あいつが文子を誘惑しているのだ、あいつが文子を誘惑しているのだ、あいつがおれもおれの父もあれだけにつくしてやったにかかわらず妹を誘惑して妹から銭を取りやがった、ああチビ公! そんなやつだとは思わなかった、おれは売られた、おれは……おれは……。
光一はそのまま二階を降りるやいなや、ぞうりをつっかけたまま家を出た、かれはまっすぐに千三の家へ走った。
「まあ坊ちゃん、せっかくおいでくだすったのに、千三は留守ですよ」と千三の母がいった。
「商売から帰らないのですか」
「今日はね、お昼前だけでお昼すぎから休みです、ボールへいったのじゃありますまいか」
「さようなら」
光一はすぐ引きかえして黙々塾へでかけた。塾にはだれもいなかった。光一はひっかえそうとすると窓から瘠(や)せたひげ面がぬっと現われた。
「やあ柳君、ちょっとはいれ」
「ぼくは急ぎますから失礼します」
「なに? 急ぐ? 男子たるものが事を急ぐという法があるか、急ぐという文字は天下国家の大事な場合にのみ用うべしだ」
「ですが先生、ぼくは……」
「敵に声をかけられておめおめ逃げるという卑怯者は浦中にあるかも知らんが、黙々塾にはひとりもないぞ」
「じゃ簡単にご用向きをうかがいましょう」と光一は中腹(ちゅうっぱら)になっていった。
「よしッ、じゃきみにきくがきみは水を飲むか」
「飲みます」
「一日に何升の水を飲むか」
「そんなに飲みません」
「いかん、人間は毎日二升の水を飲むべしだ、顔回(がんかい)は一瓢(ぴょう)の飲といったが、あれは三升入りのふくべだ、聖人は」
「さようなら」
光一はたまらなくなって逃げだした。
「ばかにしてやがる、塾長があんな風だから弟子共までろくなものがない、あん畜生! チビのやつ、どこへいったろう」
光一は赫々(かっかく)と燃え立つ怒りにかられながら血眼になって千三を探しまわった、かれは大抵千三が散歩する道を知っていたので調神社(つきのみやじんじゃ)の方へ走った。かれは夢中に並み木と並み木の間をのぞいたりお宮をぐるぐるまわったりした。と、かれはふと大きな松の下で人影を見た。