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三里塚闘争

「小説三里塚」第八章 地に落ちて

戸村一作:著『小説三里塚』 目次へもどるこの小説について

第八章 地に落ちて

第57話 代執行に備える

第四地点砦の子供たち

 一九六九年一〇月三日、空港公団は、敷地内の測量は終わったと発表した。その実、反対同盟の土地には一歩も踏み入ることはできず、止むなく公団は航空写真に切り代えて、測量は終わったということにしたのである。そして、反対同盟の土地・物件収用の不可能を知った公団は、「特別措置法」による強権発動を企んだのだ。

 反対同盟の砦は第一期工区内だけでも、駒井野に三ヵ所、天浪、一六番地点の農民放送塔などを加えて八ヵ所もあった。それぞれに団結小屋に沿って櫓が立ち、幟旗が空にはためていた。同盟ではその砦を拠点として、地下壕を掘ることを計画した。

 駒井野から天浪、木の根にかけては、緩やかなスロープを描いて丘陵が続いていた。その表土は掻きむしられて、痛々しく剥ぎとられていた。かつての緑豊かな北総の風物を知る者は、そのむごたらしい変貌に怒りの眼を向けずにはおれなかった。人間にたとえるならば半死半生――気息奄々として横たわるとでもいうか、地底からの呻き声が鳴動となって、見る者の足下に伝わってくるようだ。全く凄惨そのものの風景である。

 自然が人為的に破壊され、民家、農地、山林が、表土もろとも削りとられて姿を消し去っていく。そして、空港、パイプライン、ホテル、高速道路、団地が、これにとって代わろうとしている。これを国土巨大開発と呼び、近代社会の文明だと人はいう。
 しかし、この地に土着する農民にとっての土地とは、そんなものではないのだ。条件派の農民ですら何の苦もなく、空港に土地を明け渡したのではなかった。

 ブルドーザーの深い爪跡を残して、赤むくれにされた条件派農民の土地とは対照的に眼に染みるように、点々として残された緑地帯がある。それが反対派農民の農地だ。畑はよく耕され、作物は青々と生長している。農家の周りは一様に生垣で囲われていた。生垣の檜は人間の背丈ほど伸びて、綺麗に苅り込まれ、密生した葉は内側を覗けないようにしていた。生垣は年輪を示し、ブロック塀などよりは、数層倍美的で優雅だった。畑は黒々と潤って、ビロードのような触感をもっていた。この肥沃な北総地方を、戸田は「日本のウクライナ」と呼んでいた。

 第一期工区内の反対同盟の各拠点は、同盟結成以来の土地で、一部脱落によって公団に売り渡されたものもあるが、地主と同盟との契約関係もあり、依然として優先的な占有権は同盟にあるという立場に立った。
 公団はそれらの土地に対する明け渡し要請書を二度にわたって、戸田のもとに送ってきた。同盟はそれを黙殺した。「占有権」と主張し、頑として明け渡し要求に応じなかった。
 連日、朝早くから農民・学生らが出てきて、各砦周辺に集まった。強制代執行に備えて砦を保塁とし、一層強固な闘いの拠点を作るためである。林から樹が伐り出され、強固なバリケードに作り替えられた。有刺鉄線が従横無尽に捲きつけられた。公団を一歩も近づけないためである。

一期工区反対同盟拠点地図

 続いて、地下壕と地下要塞の築造だった。すでに、駒井野砦では鉄筋コンクリートの巨大な地下要塞の構築が始まっていた。炎天下の共同作業が日夜たゆみなく続けられた。
 天浪の丘の上には公団分室があった。その真向かいの丘は、反対同盟の所有地で、団結小屋があった。その丘の麓には、すでに六本のうちの四本の地下壕が掘られていた。丘の一〇〇メートル先には、空港資材道路が走っていた。地下壕の一つはその資材道路の下を潜り抜けて、その先を掘り進んでいた。穴は鍬と万能で穿ち、一輪車ともっこで、その土を運び出した。地盤によっては土砂崩れがあって、危険だった。危険箇所へ来ると、杭木を組んで作業を続けた。

 駒井野では、作業中の土砂崩れで吉田一雄という一人の学生が、スッポリ生埋めになってしまった。
 注意はしたもののとっさの出来事で、皆、呆然とした。――が、ただちに掘り起こし作業が始まった。崩れ落ちた土塊に向かって、大声で「吉田ーっ」と呼んだ。
 何の応答もない。スコップを持つみんなの手が、忙しく動いた。どこに吉田がいるか皆目わからないので、スコップは慎重に運ばなければならない。この土中のどこかに吉田が埋もれているのだと思えば思うほど気が焦り、手が思うように動かなかった。「吉田ーっ」と、再び土塊に向かって、誰かが大声で名を叫んだ。
 すると、眼の前の土砂が微かに動いてバラバラと砂が転げ落ちた「吉田はここだーっ。大丈夫だぞーっ」というこもった声が砂の中から聞こえてきた。たしかに吉田の声だ。
 間もなく吉田の衣服の端が、土砂の中から現われた。掘り返された吉田は土砂の中に蹲るような格好をして、枕木の下になっていた。杭木を除いて吉田は土砂の中から取り出された。

 吉田は気カはあったが、下半身が思うように動かなかった。土砂諸共倒れかかった杭木に、腰の当たりを打たれたらしい。
 駒井野団結小星の傍には、野戦病院があって、青医連の杉本医師が応急手当をした。そしてすぐに成田の日赤病院に運んだ。彼は一本の杭木によって、まともにかかる土圧が支えられて、圧死から救われた。被っていた一個のヘルメットの鍔によって鼻穴を塞ぐ土砂が遮られ、辛じて窒息死から免がれたのだ。
 たしかに吉田は九死に一生をえた。だが、吉田を救ったものは、彼の持つ強靱な精神カともいえるだろう。吉田は京都から来た第四インターの学生だった。

 困難と冒険を冒しながらも、地下壕作業は連口、夜を徹して行われた。
 眩い外光のうだるような八月の灸天下――だが地下壕の中は暗く、ひんやりして心地よかった。
 予想される強制代執行は、来年の九月だという。地下壕作戦には、全力を挙げ、万全を期さねばならなかった。近隣からあるいは遠方から救援物資を携えて、激励に来る農民や労働者もいた。それらに励まされてか、穴掘り作業は、日増しにはかどっていった。
 丘陵の側面には、至るところに横穴が穿たれた。穴というものは不思議なもので、その入口に立っていると、中の様子が手に取るように外に伝わってくる。ラッパの共鳴音のようなもので、相当遠い奥からでも穴の壁面に反響した音は、その壁面を伝わって、外まで伝わってくる。鍬を使う音や語し声が外にまで聞こえてくるのは、その理由であろう。

 天浪の地下壊を、掘っていた時のことである。
 携帯ライトを天上の壁面に当てると、白い砂が糸のように微かな尾をひいて、サラサラと降りかかるのが見えた。これは恐ろしい落盤の前兆だ。地層の悪いところに差しかかったのだ。初めは細い砂の糸だったのが、見る間に大綱のよう太くなって流れ落ちてきた。――かと見ると土砂の大塊が天上から、ドサーッという音を立てて落下した。砂埃が穴一面に立ち塞って、辺りは見えなくなった。
 地層には微妙な変化があった。岩盤のように固く鑿でないと通らないところがあるかと思えば、砂地でどうにもならず、杭木を立てなければ一歩も進めないところもあった。穴掘りはよほど慎重を期さないと、命とりになる場合が多く、困難な作業だ。
 農村では井戸掘りの最中、土砂崩れで生埋めになったり、崖下で砂を採っていて「びゃく」(土砂崩れ)で、その下敷になって命を落とす者もよくいた。農民は土の脅城を、よく心得ていた。
 早速、落盤の土砂を取り去り、杭木が立てられた。絶えず地層を査べては、これを判断し、慎重に作業を進めねばならなかった。

 穴はストレートに進まず、地層のなるべくいいところに従って掘り進むので、掘られた穴は屈折に屈折を重ねて迷路となっていた。地層によってのことだが、敵の襲来に備えてという理由のほうが大きかった。穴は屈折したかと思うと急勾配に上下して、脹らんで広くなったかとみれば急に絞られて狭くなったりしていた。そこではやっと一人だけが腹這いになって潜らねばなかった。
 ある箇所では横穴が穿たれていた。その奥には強固な杭木に支えられ、周囲から天上までニセンチ厚の杉板で囲われ、畳敷きの六畳間ぐらいの室になっていた。
 傍には二段ベッドがあり、一ヶ月分の食料が蓄えられ、なお、部屋の片隅には井戸も掘られてあった。 各々異なった穴は地中で巧妙に交差し、迷路のようになって通じ合っていて、迂闊に誰かが入ろうものなら、その出口さえ見失うほどだった。
 初期のキリスト教徒がローマ帝国の迫害を逃れて、カタコンバの洞穴に潜伏したが、クリスチャンを追跡してこの洞穴に入った兵士が、その出口を見失って再び出ることができなかったという。
 そのカタコンバとはこのような地下壕だったのではなかろうか。

 夜の八時頃になるとバリケードを潜り抜けて、五、六人の農民が団結小崖に入ってきた。彼等は一日の畑仕事を終えて、昼の当番と入れ替りに夜の宿直当番にやってきたのである。
 彼等はどこか楽しいところにでも来たかのように、嬉々として語し合っていた。団結小屋は各部落の輪番で、昼夜兼行の監視を続けた。そして、農民に学生も加って砦付近の夜のバトロールが、毎夜、厳重に行われた。
 対峙する丘の上には、公団の監視塔があった。強烈なサーチライトの光芒が絶えず動いて、こちらの
行動を探った。パトロール隊が動けば、動く方向を追ってスポットを当てた。
 物陰にうごめく影があるかと思えば、必ずそれはガードマンか私服だった。彼等は夜陰に乗じ、隙を狙っては、バリケード近く忍び寄り、こそ泥のように地下壊や団結小屋の様子を窺った。一度パトロール隊に発見されると彼等は脱兎のように、闇の中に逃げ去っていく。
 パトロール隊は瞬時の注意を怠らず、絶えず彼等の襲来に備え監視した。

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