戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる)
戸田は天神峯の団結小屋を左に折れて、東峰十字路に差しかかった。十字路をまた左に折れた。ホーチミン・ルートである。路の両側には鬱蒼とした茂みが覆いかぶさり、昼なお暗かった。それが今は伐り払われて明るくなったが、この茂みから突如現れたゲリラ隊によって、九・一六の日、機動隊員三名がやられたのである。
戸田はハンドルを繰りながら、あの激しかった九・一六の代執行の日のことを想った。ちょうどあの日の十一時過ぎだった。駒井野砦で鉄塔の倒される寸前に、この東峰十字路事件の情報を耳にした。あの時の感情は、今も忘れられない。クレーンで引きずり倒される鉄塔を見て、機動隊は大盾を地に打ちつけて喜んだ。それを見た戸田は憤りの余り、機動隊の死に勝利を覚えたほどだった。
月は中空にかかり、晃々と輝いて、真昼を欺くかのようだった。戸田はあまりの明るさで、ヘッドライトを消してみたくなり、そのスイッチを切ってみた。
古込に差しかかると竹村と石井の住家が、廃屋となって、青い月光を浴びて、茂みの中に傾いているのが見える。彼等も九・一六代執行直後までは、どうやら住みついていたが、ついにどこかへ姿を消した。燈火が消え、人影のない無人の住み家ほど佗ぴしいものはない。
憶えば彼の家の前を長蛇のデモ隊が、赤旗を靡かせて幾度か通り過ぎた、古込の道路だ。近所の子供たちが道端に集まってきては、盛んに手を振り、デモ隊に向かって、「くうこうーはんたい」と叫んだものだった。その子供たちも、今はいない。古込を過ぎると木の根、天浪だ。
戸田は自動車から降りて道端に立った。武治の葬られた墓地の辺りは、どこかと見渡した。――今は様相が一変して、その痕跡すら見当たらない。安住の地と永遠の眠りを奪われた死者たちは、今どこへいったのか。掻きむしられた表土の凹凸に月光が射して、一種異様な陰影を作り、それが戸田に凄惨の感を与えた。
右を見るとグロテスクな魔物のように、黒々と聳え立つのは管制塔か。滑走路が白く北から南に走っているのが見える。六〇〇〇億もかけたという空港も、縮めた滑走路一木で、十年この方開かずの空港だ。飛行機の格納庫か、巨大な建造物が吃立して立つ。人っ子一人見えなく、――三重のバリケードに囲われた空港は、無気味そのものだ。
戸田は一〇年の過ぎし日をかえりみて、想った。駒井野、天浪、木の根、取香等の砦の激闘、全国から結集し、闘いに傷つき、倒れても、なおかつ闘った同志の顔々。闘い半ばにして志達せず死んでいった木川武治、菅沢一利、柳川茂、大木よね、自ら若い生命を絶った三の宮文男らの顔が、次々と戸田の脳裡を走馬燈のように通り抜けていった。
水底のように青く澄明な夜景である。人影一つ見えない廃墟の空港を見て戸田は、一種慄然たるものに襲われるのだった。見るとはるか向こうの建物の陰に、人影の動くのが微かに見える。夜警のガードマンだ。
憶えば武治は一周年を迎えて、身内の手でその遺体を発かれる運命になった。
幽明異にする武治の世界は、戸田の知るよしではない。しかし戸田にとっての武治は時空を超えて、今なお身近なものとして生きていた。いや、生前の武治よりも死後の武治に、戸田は彼の本体を発見して、一層ひかれるものがあった。
これは月の夜に憶う戸田の、死者武治に対する感傷だろうか。戸田はそう思わなかった。たとえ身は朽ち果て、墓は何人に発かれようとも、武治の霊は微動だもすることなく、生きているのだ。人は武治を残して逃げ去った。そして武治は思い半ばにして倒れたが、決して彼は敗れ去ったのではない。彼の土性骨と土着の思想は、骨は枯れても生々しく生きているのだ。
「人は死んで名を残す」というが、その名とはいかなるものか。「人は死んでも」、一本の墓標も、ましてや名も要らぬ。要は「心理」(キリスト)にいかに忠実であったか、が、己れの一切を決定するのだと、戸田は思った。「明日のことを思い患うな」一日の生の充実の中にこそ、永遠があるのだ。
やがて東の空から太陽が昇ると、月は光を消す。地球の自転作用が続く限り、人間もまた生き続けるだろう。深遠縹渺として神秘な宇宙――天体は絶えず整然と運行を続け、宇宙の外へ外へと伸びている。それから見れば人間の存在は芥子種よりもいと小さく、その生命は束の間だ。この束の間の生をいかに生きるべきかが、人間の生というものだ。
三里塚闘争とはこの狭間で生きんとする、人間の苦闘であり、これを避けて、人の生はありえないのだ。
路端にひとり立つ戸田の想いが深まったところで、彼方の物陰から自動車のヘッドライトが輝いて、こちらに走ってくる。「こんなに遅く自動車が……」と戸田は思う間に、自動車は目前に近づいた。光芒が戸田の姿をくっきりと描き出した。自動車が戸田の傍で急にスピードを落としたかと思うと、ちょっと停まってそのまま通り過きていった。公団のパトカーだった。
砂塵が戸田を巻き込んで、その姿を掻き消した。戸田は砂塵を避けて、傍の杉木立の中に姿を潜めた。今まで足下ですだいていた虫の音が、ぴたりと止まった。
砂塵が消えると、空は満面の星空だ。手の届くように星が近い。無数の星は各々光と色と、その吐息を異にして瞬いている。彼方にはアンドロメダ星雲が、雲母の粉末を鏤めたように光り輝き、霞んで空の果てに流れていた。今宵何億光年が先の星が、天体の一角に姿を現わし、その光を放つであろう。そして、ある星は流星となって、宇宙の果てに消え果てるであろう。
戸田はようやく自動車を駆って、走り出した。暫く行くと坂の左側に谷間を越えて、岩山大鉄塔が、聳え立っているのが見えてきた。ちょうど滑走路の直前である。道路を走る戸田は、車を停め、窓ガラスを開き、月下の鉄塔を凝視した。