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日本人よ大人を逃げるな!-極右デモを人間の鎖で阻止したドイツ市民の勇気

ドイツのドレスデン市民が人間の鎖で極右デモを阻止
Dresden 13.Februar 2010Februar Naziaufmarsch in Dresden

 すでに超有名になっているニュースですが、あらためてドレスデン市民に敬意を表したいと思います。大きな勇気をいただきました。(詳細と動画はこちら)。

 たしかに欧州とは違い、日本において、ネオナチを社会的に克服していく歩みは、いかんせんまだはじまったばかりです。少なくともこの点においてはですが、日本社会は20年以上は遅れた段階と認識にあります。

 一方でそれは、(まだ人権擁護に対するバックラッシュがおこる段階にすら達していなかったとはもちろん言えますが)今までその必要が社会的にはなかったという意味では、逆に幸福なことでもあり、むしろ欧米に対する日本社会のいい意味でのバランス感覚というか、その長所を示すものですらありました。一般の人々の認識としても、日本で反ネオナチ運動が必要になるような日が来るとは思っていなかった人が大半だったと思います。

 しかしもう、そうも言ってはおれなくなりました。そういう意味で、このドイツ市民の行動には大きな勇気をもらいました。「自由の敵に自由を許すな」です。人を差別し、傷つけ、ましてや襲撃することを「自由」だの「言論」だのと呼ぶことは、先人たちが血を流した闘いの末に勝ち取ってきた尊い自由や言論に対する許しがたい冒涜です。(参照:何度でも言う。差別は「言論」ではない

 逆にそういうことをやめさせるためにこそ、この世からなくするためにこそ、自由というものが闘いの末に勝ち取られてきたというのに!まさしく自由とは他人から与えられるものではなく、ドレスデンの市民が示したように、自分で血を流して勝ち取り、また、闘って守り抜くものなのです。

 日本でも市民の良識とバランス感覚が健在であることを示しましょう。自分には関係ないと思わず、ほんのちょっとした勇気をみんながもちましょう。みんなが身近でやれることを少しづつやりましょう。なぜなら、ネットの匿名社会において、憎しみや差別を撒き散らすヘイトスピーチが現れたとき、言論の自由というものの意義をはきちがえ、それに一般の人々がちゃんと対処しなかったことのツケが今まわってきていると思うからです。

 人権教育を敵視さえしてきた自民党政権のもとでの教育の荒廃も問題ですが、今や子供たちはこういう大人たちのせいで、人を傷つける「言論」は、「サイトの主催者が禁止しているから」書いてはいけないんだとか思うようになってしまった。そんなのわざわざ決まりを作らないといけないほうが情けないわけじゃないですか。じゃあ、法律や規約で禁止されてなかったら、何をやってもいいのかって話ですよね。ついにはネットをイジメの道具に使う子供たちまであらわれてきた。

 ネオナチは憎しみや差別を組織化し、ヘイトスピーチを正当化することで育つのです。いまさらネオナチに流れる若者が増えたからと言って、毅然とした態度をとってこなかった私たちに、こういう子供たちを非難する資格があるのでしょうか。彼らは私たち大人社会の鏡なんです。むしろこの子らは人権が守られない今の社会の被害者でさえあると私は思っているのです。

 つまり、ネオナチの台頭は、たとえば列に割り込んだ人にちゃんと注意したり、傷ついて困っている人がいたらちゃんと声をかけてあげるくらいの、そういう小さな勇気、差別や偏見を当たり前に注意できる大人の態度、その程度の小さな良識を、市民みんなが持つことだけで充分に防げたのです。それはネットであろうがリアルであろうが同じことです。

 「困った大人にしないために」という公共広告機構のCMがありますが、「自分には関係ない」と見てみぬふりをせず、自分の子供の前でも、親がそういうことをちゃんとした態度で示すべきです。
 「左右対決だろ」みたいな言い訳してんじゃない。単純に「大人を逃げるな」ってレベルの話なんですよ。今まで権利の上に眠っておいて、お尻に火がついてから愕然としても遅いですからね。

 外国人排斥主義のファシスト側は、人々の憎しみやエゴや差別心をかきたて、それを正当化し組織化することで伸張しています。私たちはこれに対して人々の愛や連帯、思いやりの心を束ねることで対抗していくべきです。憎しみに対して憎しみで闘ってはなりません。それでは大衆は「どっちもどっちの左右(主義主張)の対立」としか見てくれません

 私たちの彼らに対する怒りの出発点は、すべての人間存在に対する愛と思いやりを基盤としたものであって、弱者を平気で踏みにじる者たちへの怒りであったはずです。

 もちろん彼ら排外主義者が攻撃をエスカレートさせている現在、今後は街頭で彼らの暴力と対峙し、これを撃退しなければいけなくなるような局面も予想されますが、どのような局面になろうとも、これが「憎しみVS憎しみ」の闘いではなく、人間という存在の内部における「愛VS憎しみ」の対決であることをいつも忘れないようにしてください。

 闘いは自分の外の誰かとだけあるのではありません。本当の闘いは自分の中にこそあるのだと私は自戒しています。もし、私たちが最終的に負けることがあるとすれば、それは彼らの憎しみの心に、私たち自身が汚染された時だけなのですから。

参考⇒壊れる前に…「市民の勇気」当日の写真など多数あり

(補足)
 ちょっと古くてドレスデンの件と直接の関係はないけれど、昨2009年6月の欧州議会選挙の頃、極右政党、イギリス国民党のグリフィン党首は議会前で 「移民排斥」を訴える 会見していたところ、反ファシズムの市民から卵を投げつけられ、大勢から罵声をあびてほうほうの態で逃げ出すという事件もありましたね。

 ヨーロッパではこのグリフィン党首が欧州議会選挙で初の議席を獲得するなど、「外国人排斥」などのレイシズムを掲げるファシズムやネオナチの台頭が世界的に懸念されています。しかしその一方で、民主主義が定着している国では、今のところ、ファシスト復活を数倍する勢いで、それに抗議する反ファッショのカウンター行動がおこなわれているようで、欧州市民の良心が示されています。これからは日本の市民も頑張らなくっちゃ、日本人の恥だよねと思う。

コメントを見る (20)

  • こちらであまり強調することじゃないと思いますが、『愛国心』というものがどういうものかを深く考えさせるような教育をしてこなかったのも一因のような気がします。
    むしろ、戦争の一因が愛国心にあると思い込み、きちんと教育してこなかった結果ではないでしょうか?

    「何故、日本が好きなのか?」「どこが好きなのか?」「日本人として恥ずかしくない行いとは?」「日本を外国から見た場合、どう見えるのか?」
    「行動した結果、『日本』という看板を泥だらけにしていないか?」「そもそも、国とは何なのか?」

    『愛国』を掲げながらレイシズムに走る連中は、これらのことについて全く何も考えていないように思えます。
    悪いことに、彼らを包囲するべき側(特に右側の方)も『愛国』とはどういうものか、かなり曖昧になっている感じがします。
    かつての自分もそうですが、『憂国・想国の志』だけでこと足りると考えているから道を誤るのではないかと・・・・
    大切なのは『人としてどうか?』という良心であり、その上で右か左かというのを論じるべき所を、良心抜きで論ずるからおかしなことになるんじゃないかと思います。

    ちなみに、現在の自分にとって彼ら(レイシスト)がどう見えるのかというと・・・

    うだつのあがらない連中が、冴えない自分の姿を直視したくないがために自らのアイデンティティを国家に重ね合わせることで、自己の認識を図ろうとする。
    しかも、それは自分にとって都合の良い『脳内国家(ファンタジー)』であり、現実と乖離する部分を自分に説明するために『異分子』を設定して誰彼かまわずレッテルを貼りまくる。
    劣等感から逃れたいがために、自分より弱い(と思っている)『異分子』を攻撃することで優越感に浸ろうとする。
    弱者を攻撃するための口実として『国家(しかもファンタジーの方)』を持ち出そうとする。

    ・・・『愛国心』どころか、ただの自己満足に過ぎないように思えますね。

    まぁ、自分にもそういうところがまったく無いと言えば嘘になりますが・・・(滝汗)
    (『理想の国家像』くらいは持っていたいのです。ただ、それを口実に他者を攻撃するのは言語道断だと思うのです。)

    しかし・・・中途半端に大義名分(『愛国』)を掲げているだけに、子供のイジメよりもタチが悪い・・・

  • >たけ(39)さん
    意見を拝見して彼らは自己満足だろうという点に関してはそうだと思います。
    更にご自分で書かれていますが、
    恐らくたけ(39)さんご自身が一番レイシストな考え方の持ち主なんでしょうね……。
    もっと他者を認める思いやりが大切だと思いますよ……。

    そのレイシズムですが、
    欧州のそれと日本では全く異なるものだという認識です。
    海外では移民や難民に関して法によって門戸を開放したせいで、
    深刻な社会問題にまで発展しているために、
    極右を中心として暴言・暴力でもって排除しようという運動が活発になっています。
    それに対して市民が人間の鎖で抵抗するという手段は素晴しいと思います。

    現在の日本では、逆に中核派や在日コリアン勢力のほうが強いですよね。
    それに対して我々市民は暴言・暴力で排除するより、
    こうした人間の鎖で抵抗するのがいいのかなとも思いました。

    右にも左にもブレないように。
    何事にもバランスが大切です。

  • >まる さん

    >恐らくたけ(39)さんご自身が一番レイシストな考え方の持ち主なんでしょうね……。

    その辺は自覚しているからこそよく見えるのでしょうね。
    自身の心の汚点をそのまま拡大して見せられているような感じになるからこそ彼等のことが許せないのでしょう。
    実際、そういったものを持たない人は本当に自然体ですから。

    欧州と日本のレイシズムの違いというのは歴史の違いそのものだと思います。
    日本はずっと単一の民族であったのに対し、欧州は国を構成する国民が単一の民族であったという例はほとんど無かったと思います。
    『力のある側が弱者を迫害する』欧州の歴史のほとんどはこの繰り返しだったのではないでしょうか?
    挙句の果てはナチスの凶行ですから、ネオナチ等の姿は欧州の人達の目には『自分たちの愚行の歴史』そのものとして映っているんじゃないかと思います。
    だからこそ本気で取り組んでいるのではないでしょうか?

  • 右派同士の会話にどう入っていけば噛み合うのかわからないので激しく悩んでしまいますが、一応は左派の発想を理解していただくという意味で…

    もちろん皆さん方は違いますが、よく政府の政策に批判的な考えを持っている人を「反日」とレッテル貼りしているのを見かけますよね。そんなレッテル貼りを常套している人から見たら、私なんて「反日」そのものなんでしょうけど(笑

    で、もしもの話、そのレッテル貼りをまにうけた人からですね、「お前は日本のどこが嫌いで反日なのだ?」とか問われたとしますよ。で、つらつら考えてみるとですね、私、別に日本で嫌いなところってあんまりないんですよ。
    つーか私、「日本が好きで愛している」と公言できますよ。だからこそ「日本」を少しでもよくしようと思っているわけじゃないですか。私の政治傾向を知らない友人からは「お前って典型的日本人だな」としょっちゅ言われるくらいですからね。

    だって生まれ育った故郷であり、愛する家族をはじめとして、多くの人たちとそこで生きてきた土地ですもん。自然や文化も含めて好きですよ。「国」というのはその「日本」という記号で表されるものの一部であって、後天的な社会システムなわけでしょ。国籍というのもそのシステムの一部にすぎないし、だいたい「政治」だけが日本のすべてではありませんよ。まず何よりも現にそこで生きている「人間」が第一だと思います。「天賦人権・人賦国権」ということです。

    そんな私から見たらね、「反日」とレッテル貼りしている連中の脳内にある「日本」というのは、現実にそこにある「日本」とは違う、どこか別の世界のイデオロギー的な観念の産物にしか見えないんですよ。その観念を現にそこで生きている人間の上位におき、さらにそのイデオロギーを正当化するために、そこから逆算して現実をなで切っているというか、世間で通用しないような不思議な理屈(純粋に机上の論理としては成り立つとしてもですよ)を次々とネット上で発明・流通させているだけです。そういう現実とは無関係に大量生産され続ける屁理屈に、いちいちつきあう気もないんですけどね。

    要するに、私が純粋・素朴に好きな「ふるさと日本」と、こういう人の脳内にのみ存在する「日本」は別物だということですね。それを政治宣伝としては意図的に混同させようとしているわけですけれど。

    結局、「日本」という記号の中には、山のような概念や現実や様々な立場とか利害の対立が含まれているわけで、単に「日本」とか「反日」とか語っても、単なるイデオロギーとしてしか意味を持たず、少なくとも現実の政治としては何も言ったことにはなりません。「愛国」とか「民族」という言葉も同様。そんなのアメリカと闘う小国の左翼ゲリラでもかつて普通に使ってきた言葉なです。スターリンは「祖国」を連発したし、北朝鮮にいたっては「民族」を連発し、日本共産党なんて「真の愛国者の党」で「米軍の駐留を認める右翼に愛国を語る資格はない」とか言ってますよ。

    つまり現実の人間一人一人を離れたところで、そんな「日本」「祖国」「民族」なんて概念をアプリオリに語られても、特に積極的な意味はない。その何をどうしたいのか、だいたいそこに生きている人間にしても、様々な階級や階層の人がいるし、日本の国籍をもっている人ばかりでもない。そいういろんな人々で構成されている「日本」の中で、自分はこういう立場なんだと語っていただかないと、たとえば「日本を守る」だのなんだの言われても、それだけでは何を守りたいのかさっぱりわかりませんし、私には何も言うべきことがありません。つまり「日本」一般の利害なんてないと思います。よしんばあったとして、そんなの毒にも薬にもならない無難な意見にしかなりえないでしょう。

    まあ「反日」とかレッテル貼りしている連中に対して何かいうとすればね、「あんたいつから全『日本』を代表するほど偉くなったの?」くらいでしょうかね。当たり前のことですが、ありとあらゆる「日本」をすべて代表するなんて、生きている人間には不可能です。それができるのは神様くらいだと思います。もちろん天皇も神様ではなく生きている人間の一人であって、「日本」の中の一部分なわけです。彼は人為的に作られたある種のシステム(諸関係)の内部においてのみ天皇なのであり、同時にその社会的諸関係の一部分である一個の人間にすぎません。そのことはたとえ右翼であろうと近代的な理性をもった人間なら、本当は誰でもわかっていることだと思います。

  • まるさん>

    ごあいさつを忘れましたが、ご投稿ありがとうございます。
    今回は思い切り左翼に走って書いてしまいましたが、また何かあればどうぞ。
    ただしレスは期待しないでね(苦笑

    > 現在の日本では、逆に中核派や在日コリアン勢力のほうが強いですよね

    って初耳です(笑
    単に「在特会」の構成員(公称6000人だったか?)との比較で言っているのかな?
    単純に在日コリアンの人数(全人口の1.4%)で言えば、確かにこういう排外主義者よりは数は多いでしょうけど。
    いや、それもわかんないかな。ネットの実感では排外主義者も3%くらいはいそうな気がする。

    まさかと思いますけど、カウンター行動や集会に参加・賛同した人を全部「中核派や在日コリアン」に分類してませんよね?
    だとしたら私も中核派に分類されてしまうが(爆笑

    一応まじめに書いておきますと、中核派(系列を含む)は、つい最近まで、この手のカウンター行動には来ていませんでした。昨秋くらいから周辺の人や、中核派の本部とは袂をわかった反主流的な部分をちらほら見かけるようになったくらいです。もちろん個人的にはいたのかもしれませんが、それはわかりません。在日コリアンの方々についても、今までは個人的な参加にとどまってきました。

    ただ、朝鮮学校の(よりにもよって)子供たちを襲撃して以降は、空気が変わっているんではないかな?(単なる私の予測ですけれど)。だって中核派がということではなくて、とにかくみんながかなり怒っていますからね。
    さらに上にあるみさんの報告記事のトラバもありますが、関西の「在特会」では、いままで市民団体のビラまき活動を粘着に妨害してきて、そのこと自体が許せませんが、その枠をこえた暴力的な襲撃が日常化してきていると聞きました。

    これは、いくらなんでもちょっと調子にのりすぎじゃないか(特に関西)と思いません?事態がここまで深刻化してくると、今後はどういう流れになってくるか予測はつきません。「在特会」にも内部にはいろんな人がいるらしいよとは聞きましたが、こういう他者への妨害や襲撃をする人を追い出して、自分たちの言論で勝負するように方向転換してくれたらいいんですが。あ、でもそれだと代表を追い出さないといけないか(爆

    このままいけば、私は中核主流派を含めた「オール左翼」の連合とか、さらには左翼の枠を超え、関西地方限定で地域的な「反ファシズム国民戦線」が成立する可能性もあるとみています(これも私の個人的な予測にすぎません)。それはそれで、もし、私のこの希望的観測が実現したら、今までばらばらで何の力も持たなかった左翼に共同戦線の雰囲気をもたらしてくれるわけですから、まさに「在特会」さまさまだったよねというオチになりますが(笑

    だいたい彼らが臆病者だから、弱いものイジメ専門に徹して、絶対に勝てるとか、絶対に反撃してこない市民団体とか子供とかばかり襲撃しているから、だんだんとそういう空気になるんですよ。私が現役の「過激派」だった時代には、右翼も私らの本部ビルをわずか数人で襲撃したりしてきたもんですがねえ。それが今では小学校を襲うとはね!まったく落ちたものですよ。

    まあ、カウンター行動のほうが「強い」なんてのは(まだ)認識違いですが、彼らがこういう弱いものイジメを嵩にかかって続けるなら、今にどこかで足元ををすくわれるのは確かだろうと思っています。なぜなら私はそこまで「日本人」というものを卑下していないからです。今のうちに彼らが自制して普通の右翼団体になるのが一番いい。それだとこういう襲撃を楽しんでいる実行部隊やネトウヨ部分が離れてしまうでしょうが、そのほうが彼らにとっても将来的には正しい選択だと思いませんか。

  • 草加さんのおっしゃるような、いわゆる『郷土愛』こそ健全なナショナリズムだと思うんです。
    政治が介在しなければ、まず間違いなくそちらの方向に育つはずなんですよ。

    しかし現実には、『愛国心』と聞けば『天皇陛下』とか『皇国』とか仰々しいものを連想する人があまりにも多いのです。
    私はその理由を『教育してこなかったこと』ではないかと考えています。
    もちろん『教育勅語』みたいな刷り込み型の教育ではなく、良心に基づいて自発的に芽生えた『何か』を肯定し、確信させていくタイプの教育なんですが・・
    (小学校とかの『道徳』の時間なんかがそれに該当するのでしょうけど、自分の記憶だと教科書の内容をなぞっただけだった気がします。)

    人間というのは自分がどれだけ正しい考えを持っていたとしても、周りがまったく違った考えを持っていて、しかも「それが正しい」なんて言われると、よほどはっきりした確信を持っていないと結構簡単に流されてしまうみたいです。
    それに、『愛国心』云々というのは誰しも一度は考えることだと思います。
    でもきちんとした教育を受けてこなかった場合、明確な回答というものは、なかなか見つからないと思うのです。
    大抵の人は、自身の持つ『郷土愛』が『愛国心』に繋がると漠然と理解はしているはずですが、確信をもっている人はまずいないと思います。
    そのようなときにある程度完成された『ネトウヨ理論』なんか目にしたらそれが『真実(健全な考え)』だと誤解する馬鹿が必ずいるんですよ。(GOさんのところの二人とか・・・)
    しかも良心まで捨て去ってしまうほどの馬鹿が・・・(だからレイシズムなんかに染まったりするのでしょう)

    そういうのを防ぐため、ある程度でも自分の考えを早いうちに持たせる教育が必要なんじゃないかと思うのです。

    所詮は『借り物』なんですが、それを自覚していない馬鹿があまりにも多すぎる・・・

  • たけさん>

    おっしゃっていることは、とてもよく理解できます。
    どこかの町に行って「ああ、ここはとてもいい場所だな。好きだな」と思うこととか、自分の生まれ育った場所を「いいとこだよ」というのが、イコール右翼ということにはならないという意味で。バリバリの左翼の人たちにだって、そういう心情はごく普通にあるのですから。

    おそらく普通の保守派から社民派にいたるまで含めて広範に同意できる、そういう意味では今の日本社会では「健全でまっとうな意見」に分類されると思います。だから、たけさんは私よりもネトウヨよりも遥かに多数派のお一人です。

    ただ、これはたけさんにではなくて、このブログに来られる他の左翼の皆さんへの言い訳なのですが(爆
    そういう素朴な郷土愛を、愛国心に結び付けて教育しちゃうということに私は賛成しているわけではないです。そこではまず「国」という言葉で何を代表させているのかを明確にしてもらわないといけない。国家という概念と郷土を無批判にイコールで結びつけられては困る。

    別の言い方をすれば、心の中にまで国境線を引くような教育は害悪だと思う。目の前に困っている人がいるから助けたい。そのときに、その人の民族が何人だとか、国籍がどこであるとか、ましてやまったく初対面の人に「お前たちは・・・」なんて(ほめるにしろけなすにしろ)ありえないことを言うような大人になってほしくない。

    たけさんの意見に戻ると、現状で「健全な愛国心教育」を国家主導で行うというのは極めて難しいか危険かのどちらかではないでしょうか。まず人権教育が行われていないところに、愛国教育だけを導入しても、それこそ、たけさんおっしゃる「誤解した馬鹿」が大量発生するだけのような。

    「いや、そのあたりは中立に徹すれば」ということになるんでしょうが、早い話、私の語った「素朴な郷土愛」の中には、日の丸や君が代なんてもんは(日本の内部でも利害が対立する社会システムの一部だから)入る余地がないのですが、たけさん的にはそれでもいいのかな。「愛国心教育」を叫んでいる人にとっては、むしろそのあたりが肝になっているので、「それは違うんじゃないか」という話なのですが。

  • ALL>
    今回、ひさしぶりに文章を書くための「マメ子さん」が降りていましたが、エントリーではなくて、あっちこっちのレスに全部使ってしまいました。

    なので(おそらく)当分の間、目立つ場所での更新はありません。
    次に降りてきたときこそ、エントリーに使いますので、どうか見捨てずにご訪問くださいませ。

  • 草加耕助さま、お久しぶりです。

    記事を読んで思ったのは、「日本なら、まず包囲デモに許可は出ずに、警察が両方を引き離すだろうな」ということと、「生卵を投げつけた人間が逮捕されて、極右が被害者然として我が物顔で振舞うであろうな」ということです。

    今、直リンできませんが、「あらゆる暴力を許さないという言説は、結局は今ある暴力を黙認することである」という小生の考えを改めて思い起こさせました。

    日本にあるケッタイな「非暴力主義」について、小生は激しい違和感を常に感じています。

  • TAMO2さん>

    「いかにもありそう」じゃなくて、まさにそうなるでしょうねー。

    蕨の時がまさにそうでしたもんね。
    つーか、合法的に滞在許可がおりている13歳女児の実名を、「犯罪者」と横断幕に書いて、その自宅や学校周辺を練り歩こうとしたわけですから、これはファシスト側が先に暴力的な攻撃をしかけてきたケース。そこで最低限の行動としてとっさにその横断幕の掲示だけでも、体をはってやめさせようとした青年がいた。

    これって、普通に考えたら、どう考えてみても英雄的な行いにしか思えないはずなんですよね。それが女児に名誉毀損行為を行ったファシスト側ではなく、それを止めた青年が逮捕された。全く恥ずかしいったらありゃしません。

    イギリスでファシストが撃退されたニュースも、最大限市民側に好意的な映像に見えますが、日本で同じことがおこったら、卵一個で「テロじゃテロじゃ」と大騒ぎでデマ宣伝するんだろうなー。
    なんせ(景気付けかなんかしらんが)背後でいちびってバクチク鳴らしたやつがいただけで、「爆弾を投げ込まれた」とか宣伝している(爆笑)くらいですからね。

    >日本にあるケッタイな「非暴力主義」について、小生は激しい違和感を常に感じています

    昔のやりすぎの後遺症じゃないですか?
    非暴力と無抵抗はやはり違うと思いますがね。自衛の権利はあるはずですし、左派側は十分に今までやられ放題で我慢して、ファシスト側に自制の機会を与えたと思いますけどね。

    ドレスデンの例は、京都の外国人排斥デモなら、1万人の市民が河原町通りを封鎖して、その先頭に京都市長がいたというようなもの。民主主義の力の差を思い知らされます。