初詣の思い出ー左翼はカルトやポルポトであってはいけない

死後裁きに合う

 先日マル共連BBSに投稿した以下の私の思い出話から、若干議論めいたレスがつきまして、それに回答すると本当に議論になりかねないので、こちらに回答(誘導)しておくことにします。

 この「議論」の意味がわからない方のために簡単に書いておきますと、なんでも中核派の前杉並区議会議員、北島邦彦さんが、初詣したとかしないとかいうことをブログで書いたことが、ネットの一部で話題となり、あちこちでお祭り騒ぎになっているわけです。

 まあ、中核派の日頃の行い(たとえば警察がノーマークの地域の小さな神社を「反天皇制」を掲げて放火とかしてた。真面目に反天皇制してる人には結構迷惑な行為だった)から、「今さら皆で神社に初詣したとか、何をほのぼの語ってんだよ!」と、ここぞと揶揄や皮肉をくれてやるのも、わかるのですが、そういう程度の人はさっさと次の話題に移行し、だんだんと「マジ」な人たちが残って、中核派の路線問題にまでからめたお祭りが続いているようです。

 それを見て一番最初に私の脳裏に浮かんだのは、毎年初詣の人ごみの中、「裁きの日は近づいた」「地獄に落ちる」とか書いたプラカードを持って、キリストを信仰しない者は地獄行きとかいう説教のテープを流しながら、じっと参拝客を睨んでいるカルト宗教の皆さんの暗い目でした。あるいはそういうのって、私には、なんだか以前に党旗を忘れた民主党が、とっさに日の丸を加工して党旗を作ったのがけしからんとか、国会の場でまでキイキイ言ってた人たちとだぶって見えてしまいます。キリシタン狩りの踏み絵じゃあるまいしと思ってしまいます。

 初詣が生活習慣だろうが宗教行為だろうが、「自分が初詣に行く」のと、行かない他人を攻撃したり、ましてや国家や行政機関が自身で「公式参拝」なり代表者が「私人名目」で参拝を行うなどの脱法行為で有形無形の圧力を加え、あまつさえそれに反対する者を民間右翼と公安警察が連動して弾圧しているのは全くの別問題です。

 それと同じように、自分が初詣に行かないのと、行った人を攻撃するのは全然違う問題だと思います。また、左翼でもクリスマスパーティーくらい参加する人はいくらでもいますが、それでキリスト教徒になったわけではありませんし、ましてやキリスト教会の帝国主義侵略に随伴した歴史まで肯定しているわけではありません。

 こういう議論は歴史的にも日本に限らず世界中にあるわけであって、たとえばアフガンでイスラム教の生活習慣をアプリオリに否定、蔑視したために(原因はそれだけではないだろうけど)民心を離反させて崩壊した左翼政権と、イスラム的生活を徹底して強要し、女子教育まで敵視したタリバーン政権のどちらを支持するのかと言われたら、私はどちらも支持しないし、その上で、アメリカの軍事侵攻をも非難します。そのことに何の矛盾も感じませんし、私の価値観は一貫したものであると思います(エントリ巻末リンク等参照)。

 北島さんの初詣については、まあどうでもいいというか、私だって「ほう、君らが初詣ねえ。ちょっと前に私らがそんなことしてるのを見たら、君らなんと言っただろうねぇ」くらい、軽く皮肉の一つもくれてやりたくなりますが、それを超えて「原則的」にこの問題を長引かせようとする議論について言えば、要はこれは正しくスターリン主義の問題にいきつくと思います。左翼はカルトやポルポトであってはいけないと思います。

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【マル共連BBSへの私の投稿 Date: 01/26 20:54↓】

 私の最初の大学時代、同じクラスで仲の良かった3人が、翌年の正月までにはそれぞれ戦旗・共産同、中核派、共産党・民青に分かれてしまいました。幸いにも(?)、3人とも学内では肩身の狭い少数派同士だったことや、それ以外の党派やノンセクトの政治があまりにも狭量で無茶だったこともあり、私たちは喧嘩することもなく交流は持続して、バイト先も同じ京都四条の飲食店で働くなど仲良くしておりました。

 その年の大晦日から元旦の未明まで、終夜営業のバイトを終えた私たち3人は、年明け深夜の開放感からそのまま帰る気にもならず、せっかくだから近所にあった八坂神社(祇園祭の氏神様です)に初詣に行こうぜということになりました。「左翼が初詣していいんか(笑)」などと話ながらも、3人で人ごみに揉まれて八坂さんの石段を登りました。

 ようやく賽銭箱(本殿)の前まで到達しましたが、ジャーン、そこにはでっかい「菊の御紋」が。私(戦旗派)はそれを見て、「あーだめだめ、ここまで来たけど、やっぱり左翼として菊の紋に頭下げられへんわw」と言うと、もう一人(民青)も、「ほんまやー、こんなに大きく正面にあるとはな。僕もやめとくw」となったのですが、最後の一人(中核)が、「いや、ちゃうやん、そういうのちゃうって、こういうのはやっとくもんやねんって」とか言い出すので、私ら二人はこぞって「え~っ(ニタニタ)」となりました。

 その後、彼は照れくさそうに、お賽銭入れて、柏手を打って、菊の紋を前に頭を下げるもんだから、私ら二人は指をさして大爆笑!「おーい、中核派が菊の紋に頭下げてるぞぉ~w」、「ひ~、なんでカメラ持って来ぃひんかったんやろwww」などと腹を抱えて大笑いしました。その後、また3人でなにごともなく、夜の街に消えていったのですが、大学がはじまってからも、そのことを言いふらしてみんなでケタケタとからかってました。しかもその中核の彼は、のちに在日朝鮮人だったということまでわかりました。

 まあ、戦旗だ中核だ民青だと言ったところで、まだまだシンパに毛のはえた程度の18、19歳の子供同士でしたし、三里塚分裂前だったからこそ、また、以前からの友人同士の内輪だからということではあるわけですが、それでも私にとっては思い出すたびに笑顔がこぼれる、そんな青春のひとコマです。
 3人の付き合いは戦旗の上級の人たちには容認されつつも苦笑されてましたが、中核・民青の上級はかなり不快に思ってはいたようです。また、それぞれ隙あらばこの3人ともをまとめてオルグろうとしてました。また、三里塚の不幸な分裂の後に、30人規模で各大学を巡回して制圧して回っていた中核の部隊は、ほとんど言葉の通じない、宇宙人みたいなカルト部隊という印象しかありません。その頃には彼らとの付き合いも絶えてしまいましたが、どこでどうしていたのでしょうか。

 今なら、つーか、当時でも、たとえば親や年配の方と一緒に初詣にいったら、いきなり「ナンセンス!」とか論争して糾弾とかしませんよ。普通にみんなと一緒に初詣して帰ってくると思います。お正月をみんなと一緒に「伝統的」に楽しんで、翌月の2月11日には反天皇制闘争しても、特に何の矛盾も感じませんけどね。だいたい初詣なんて、一般の人には単なる正月イベントにすぎないわけで、それしただけで糾弾されるとか勘弁してほしいです。普通の人が聞いたら「それってどんなカルト宗教?」としか思わないんじゃないかと。

以下、同BBSでの「議論」転載

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Name: すえいどん Date: 01/22 13:02

うろ覚えですが、本多書記長が、農家を訪ね、おもむろに神棚に手をあわせてから、お話を・・というのを読んだことがあります。

問題は天皇決戦の神社放火との矛盾挙動でしょう。

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Name: ROTE
Date: 01/27 02:32

 初詣を「単なる慣習として、宗教的意味はない」との理解は、確かにフツーの考え方なんでしょうね。
 形式的には「信仰の自由」認められていた明治憲法下で、義務教育で神社参拝を強制されることに異議を唱えた人々に対する、当時の権力者の説明も同じものでしたよ。つまり、「それは宗教行為ではなく、単なる慣習である」と。
 戦後も、地鎮祭訴訟など、同じ「論理」が貫かれています。無論、総理などの靖国参拝でもね。
 草加さんの友人の在日の人は、それほど気にされなかったのかもしれませんが、在日であるか本国に住んでいるかを問わず、多くの韓国民は、そのレトリックで連想するのは、日韓併合時代に強制された神社参拝であり、創氏改名や日本語の強要と一体のことではないでしょうか?
 多くの日本人は、そうした過去について、関心を持っていません。ですから、神社参拝を問題視すること自体に、違和感を感じることでしょう。
 しかしここで問題になっているのは、「日帝のアジア侵略と植民地支配に血債をかけて戦う」と主張してきた、かの党派の幹部の行動です。
 「203高地」の表現も含めて、かの党派の変質ぶりが話題となっているわけで、元アラ・カルトの方が、「カルト」云々をおっしゃられても、私には理解しがたいです。
 言ってしまえば、所詮新左翼など、カルトでしょ?でも、そこに、大切な問題提起。忘れてはならないものがあったのだと思っています。それを、一般的な民衆(意図しないにしても、日本人に限られてますけど)の意識を基準にして、それをカルトで切り縮めてしまうのは、いかがなものでしょうか?

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Name: 孤立無援 Date: 01/27 03:00

 佐藤優が言っておりましたが、高橋和巳によると革命家は私生活では保守的である事は許されるそうです。「反日」を標榜した武装戦線でなければお参りは許容範囲ではないでしょうか。

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Name: 草加耕助 Date: 01/27 10:57

言いたいことはわからんでもありませんが
これは反論というよりは問題の整理です。

1)北島さんの初詣したということで、中核派が重大な路線変更をしているとの議論については、すえいどんさんと同じ感覚を持ちます。
http://tree.atbbs.jp/saiken/index.php?n=4404

いわれてもやむを得ない点が多々あることははわかりますが、バイアスのかかりすぎで、客観的評価としてはどうでしょうか? 問題点の指摘にとどめ、そのあとを見届けるというあたりではいけないのでしょうか?

[4404] それは言い過ぎ Name: すえいどん Date: 01/23 22:25

2)どうもROTEさんはこれを国家神道なり天皇制の問題として、それを認めるのかどうかの二者択一として議論したいようですが、私はまさにROTEさんのご指摘になったような問題を日本民衆に訴え、運動実践を具体的に進めていくに際しての問題、すなわちスターリン主義の問題として立てています。すなわち紅衛兵やポル・ポトの道を選ぶのかどうかという問題です。それは日本や日本人に特有の問題ではなく、世界中のあらゆる革命運動の歴史の中で常に問題になる重要な点です。少なくとも私はそういうものとして提起しています。そこを意図的にか無意識的にか混同して論じられても、さっぱり議論が噛み合わないと思います。

3)ROTEさんは左翼運動を、民衆の中での一種のカルトであり、市民社会内部でその価値観に反する少数派の共同体が、外部との争闘の末に発展していくような、同心円的なモデルとして「左翼の問題提起」を把握しておられるように感じました。私はそういう少数派の共同体も必要だが、それはあくまでも「道具」にすぎず、その道具を使った民衆自身の行為として左翼運動や革命モデルを考えています。そこではとりわけ初期において、民衆の心に届かない独善的な言辞ではなく、いかに民衆を説得するかに留意するべきだし、「正しい」だけでは足りないと思っています。
 また、その道具が強大になれば同時に民衆に牙を剥く圧力機関となる、もろばの剣であることに常に留意しなくてはなりません。ROTEさんの言う「アラカルト」というのはそういうことでしょ。「アラカルト」が攻撃したSさんは、右翼ファシストを自称する人ですが、そのことは問題とはならなかったはずです。つまり私の提起している問題意識からすれば、ROTEさんもいつか「アラカルト」と同地平になってしまうのではないですかという提起です。そこに問題意識のズレがあって、噛み合っていないと思います。

 三里塚農民の家で神棚や、高いところに飾ってある天皇の写真をぶち壊していたら、その後の三里塚の発展はあったでしょうか。あるいは中東人民との連帯にあたってイスラム教やその習俗を侮辱してそれが達成できるでしょうか。反戦闘争を闘うキリスト者に「まず信仰を捨てよ」と迫ることが正しいのでしょうか。言っていることが「正しい」ことでも、結局はかえって遠回りではないのか?また、そういう「正しい集団」が統治する国に、私は住みたいとは思いません。

 え?そんなこと言ってないって?
 そうですね。ROTEさんに反論するわけでもないのです。ただ、私はこういうことを言っているのですよ。要するに「そんなこと言ってない」のはお互い様だということです。

ここは議論の場ではない(禁止)ので、もし、ROTEさんが議論になってしまうと感じるのなら、
http://bund.jp/modules/wordpress/?p=11436
の方にお願いします。議論でないただの返信ならいいのですが。。。
お互いに相手の言ってないことをぶつけあうだけの水掛け論にはしたくないですね。

<参考リンク>

新年の錦帯橋周辺を歩く(北島邦彦の「すぎなみ未来BOX」)←問題の発端
中核派系前議員が「初詣」で神社参拝(マル共連BBS)
※あと2ちゃんねるとか四トロ同窓会とか~その他いろいろ~
中核派系前議員が「初詣」で神社参拝(酒井徹日記)

三里塚と昭和天皇と金日成(前編(ブログ旗旗)
三里塚と昭和天皇と金日成(中編(ブログ旗旗)
三里塚と昭和天皇と金日成(後編(ブログ旗旗)
蔵田さんの回答書への読書感想文(ブログ旗旗)
中核派本多暴力論批判(ブログ旗旗)

正しければいいのか-日本赤軍の経験から
主張の正しさは行動を正当化しない。逆もまたしかり(上)(ブログ旗旗)
主張の正しさは行動を正当化しない。逆もまたしかり(下)(ブログ旗旗)
人を殺して埋めてしまうことはそうそうないとしても(ブログ旗旗)

左翼運動のスターリン主義的歪曲を克服せよ(前編(ブログ旗旗)
左翼運動のスターリン主義的歪曲を克服せよ(中編(ブログ旗旗)
左翼運動のスターリン主義的歪曲を克服せよ(後編(ブログ旗旗)
10・10三里塚(成田)現地闘争報告(その4)-集会・デモ報告(ブログ旗旗)
 ↑私も東峰神社には何度も参拝してますし、現地でも大切に信仰されてますが、それもダメですか?

2件のコメント

これは本文とあまり関係ない余談になるのだけれど、本文で書いたカルトな人たちが、今日は宣伝カーを繰り出して巡回しているところに出くわしてしまった。あんまり衝撃的だったので、ここにちょいとだけ書いて残しておくことにする。

いつものあの「キリストを信じないものは地獄に落ちて焼かれる。信じたものは永遠の命を得る」という録音テープを流しておられたのだが、今日はなんと、その録音テープの合間合間に、若い男の声で「キリストに従わないんですか!?」と超早口で絶叫する合いの手が入っていた。これは初めて聞いたのでびっくりした。

テープ「キリストを信じないものは地獄に落ちて業火に焼かれます」
合いの手「あなたはキリストに
     従わないんですかぁ!?
     従わないんですかぁ!?
     従わないんですかぁ!?
     従わないんですかぁ!?
     従わないんですかぁ!?」
テープ「キリストを信じるものは永遠の命を得ます」

こんな感じ。なんかすご~く嫌な気分になる。
キリストが目の前にいて、私に従ってくださいと頼まれたら従うと思う。
ただ、キリストではなく、お前らに従う気がないだけだ。
お前はキリストではない。
つか、どうしてもオウムの「麻原テープ」しか思い出せない。

カルトはみんなそうだが、こいつらにしてみたら、自分こそがキリストの代理人で、キリストに従うとは、すなわち自分たちに従うということであり、その脳内では、自分の言う通りにしない者はすべてキリストの敵で地獄に落ちる存在なのだろう。

このメンタリティーはネトウヨさんのそれと全く同一だし、一部のネトサヨさん、内ゲバ主義者やセクト主義者とも、驚くほど共通したものだ。

だいたいこんな、迷える子羊(民衆)、そして何より目の前の一人一人の生身の人間に対する愛のカケラもない脅し文句で脅迫する行為は、それこそキリストの思いを踏みにじって歪めるものなんじゃないか?

本当に聖書は(コーランや仏典、また宗教に限らずマルクス主義のような大部の体系はみんなそうなんだろうが)、抜き出す箇所やその解釈によって、いくらでも自分の好きなように構成できてしまうもんなんだな。そしてそれは時間が経つにつれて極端で常識はずれのものになっていく。だが本人たちにしてみれば、それこそが信仰の証だったりする。

異端審問などはナンセンスだが、そういうものが出てきたのも必然だったんだろうな。もうちろんそれとて、人間が作った現世の制度であることを忘れたら、おかしなことになるだろうし、実際なったわけだが。まあ、人を脅して回るようなおかしな道に踏み込まないためには、「初心を忘れるべからず」ということに尽きるだろう。

まあこれも何の関係もないのですが、初詣が現在のような大衆的なものになったのは明治以後、鉄道の発達が大いに関係しています。とにかく全国の著名な神社にわざわざ電車に乗って行く『イベント化』がされたのですな。まあそれは当たり前で、鉄道の無い時代は近所の神社やお寺(江戸までは神仏混合だし)に行くのが普通でしょう。日本の伝統と思うものが意外と明治時代の発生というのは多く、初もうでもその一つかと。
これもどうでもいいことですが、私は日本人の「国民食」は、カレーとギョーザとラーメンだと思いますが、もちろんこれらもすべて明治以後、下手すれば戦後に一般化されたもの。

私も初詣は近所の神社に行ってまいりましたが、深夜は満員で並び状態、あきらめて朝方一杯飲んでから行きました。

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