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「左翼」は助け合わない?

「ブログランキング」に関するエントリーを書いてから、四トロ掲示板で下記の記事を教えてもらいました。

ネットウヨ良いところ(「ネット右翼問題を考える国民会議」様より)

(一部引用)
一 決して仲間を見捨てない。どんなに馬鹿で「本当こいつ頭オカシイだろう」と思われるネット右翼でも必ず仲間がわんさかと押し寄せ助けに来る。これが左翼ブログならどうだろうか。一部の例外を除いて(例えば北国ブログなど)ほとんど助けなどブログ主には期待できない。
二 決して仲間への感謝を忘れない。どんなアホな支援レスであろうが感謝の言葉を述べる。これが左翼ブログとなると「お前の意見は参考にならん」「いらない支援」と平気で言う奴がいる。
(引用ここまで)

「左派サイト同士は助け合わない」という指摘は耳が痛い。右の意見ならどんなアホなものでも何でもOKのネットウヨに対し、左派の人は左の主張も「右」の主張も対等に扱って自分の意見をのべるのでこういうことになりがちだ。あと、昨日のエントリーで「民間人ではなく権力者と闘うことをまず第一と考える左派の良き伝統」を書いたが、それにつけ加えて「でも左翼同士で意見が対立したらこちらから出かけてでも叩いておく悪しき伝統もある」としておく。まったくもって左翼って輩はと嘆息したくなる。私も今後とも充分に気をつけたいところである。

何と言うか左派に進む人にもいろんなタイプがある(あった)けれど、このご時世で左派に進んだ人は、だいたいが束縛を嫌うというか、独立・自由な気風を持った人が多いということもあると思う。ネットウヨみたいにワラワラと徒党を組まないと動けない人間を見ると、反射的に「キモい」「ああはなりたくない」と思ってしまう。だから誰かが助けに入っても、ネットウヨと同類に見られるのが嫌で「別にいらない」となってしまうのだろう。

こういう人は、左派的価値観や正義感から左派になったのではない。逆に自分の人格的独立と自由な気風を重んじるがゆえに左派的価値観を持つにいたったのだ。結果と原因が逆になっているんだとも言える。

一方、ネットウヨみたいに政治に関心があって、かつ「徒党を組みたがる人」はいつの時代にもいた。彼らはその時代の空気に安易に流される傾向があるから、昔は左翼に流れる人も多かったのだが、それが今は右翼に流れているだけの話だ。しかもその中でも最も質の低い、昔なら指をくわえて見てるだけで自分からは何もしないしできないようなタイプの人が、ネットと言うおもちゃを与えられてはしゃいでいる姿がネットウヨといえるだろう。右翼にも人格的に尊敬できる人はいる。しかしネットウヨは別だ。

さて、それで「徒党を組んだネットウヨ」が具体的に何をしてるのかを冷静に解説してくれているのが下記の記事である。

太陽に集いしもの
 └ ”反;反体制”教徒の僕ちゃんたち

その行動パターンは、、、
猛烈な書き込み数による多重ハンドルネームによるトピ荒らし、風評の流布、スレッドの占拠だが、論争では”ファシスト的ディベートテクニック”で、閲覧者への印象操作を主眼とする。
※ファシスト話法=わざと論点をずらし、相手の主張を曲解して対応、第三者に対して、負けているように感じさせない、印象操作を目的とした会話術
彼らと討論しようとしても、そもそも彼らの目的は”討論”でなく”第三者に優勢だと感じさせる印象操作”が目的だから、全くの徒労に終わる。

非常に的確な指摘で、かつ「なるほど」と膝をうった。
私も2chなどでは彼らと「討論」しようと努力したが、すべて徒労に終わっている。たとえば北朝鮮にどのような立場と方法で抗議すべきかという討論をしようとしたとする。だがまずもって彼らは自分と違う意見をいっさい認めない。いきなり「やい、こら在日!」なんて罵倒から入ってくるのも珍しくない。日本人なら自分と同じ意見のはず、そうでない奴は日本人でない。在日だ!という理屈らしいが、まったくもって差別意識丸出しで隠そうともしていない。

それで勝手に人の意見を「北朝鮮を擁護することが目的の工作員」だとかこちらの主張をわざと「曲解して対応」する。いつのまにかワラワラと人数が増えてきて(またはそう見せかけて)、「人殺し」だとか「北の手先」とか理屈になってない罵倒を繰り返す。

このへんは一種のマニュアルというかパターンみたいなものが共有されていて、それを機械的になぞっている印象だ。確かに昔は左翼にもこのパターンの硬直お子様サヨクがいたなあと懐かしく思い出す。違うのはそれを恥と思わないで、そういったマニュアルを完備していることを誇っているサイトさえあることだ。
それで最終的に本当にこいつらおかしいんじゃないかと思って書き込みをやめると、「勝った勝った!」「工作員は論破されて撤退しますた」とくる。

どうしてもこいつらの頭の中の精神構造を理解できなかったが、そーか、「そもそも彼らの目的は”討論”でなく”第三者に優勢だと感じさせる印象操作”」ということなら、こんなお子様な対応も納得できるというものである。しかしこんな「印象操作」で騙される人がいるんだろうか。いるならもう「そっとしておいてやれ」とも思うが。

しかし彼らのこういう精神構造や行動パターンって、どっかで見たことがあるぞ!と思ったら、そう、現在的には北朝鮮、かつてはナチスドイツのファシズムのパターンだ。

彼らは、テクニックには精通しているが、それを運用する根っことなるべき、人間の体温を感じさせる信念というものを発していない。・・・

根本となるような理念がないので、意見として展開するのは、マニュアル化されているような”リアリズム”な理由付けと反対者へのレッテル貼りに限られてくる。・・・

仮に、小泉政権が金正日のような醜悪な政権に変化したとしても、彼らは”反;反体制”教徒として付き従っていくだろう。彼ら自身は気づいていないかもしれないが、彼らも悪と認める北朝鮮のようなファシズムを受け入れる土壌を耕しつづけているのだ。

うーん、まったく付け加えるところがない。こういう、理念ではなくて事実に即した現実的な批判はひさびさに見た。態度として見習いたいものだ。ネットウヨを「”反;反体制”教徒」と表現したのも実に的確である。

”野党はなんでも反対というだけだ”と言いつつ、自身が”反対派に反対する”ことでしかアイデンティテイを保てない存在であることに気づいてはいない。そして、”リアリスト”を気取りながら、非現実的な屁理屈の要塞に逃げ込んでいく。

つまり彼らは自分がそうだから、「左翼」だって自分の裏返しの同じような存在だと思っている。もしくはそうであって欲しいと願っているということですね。

さて、ところで従来の「右・左」みたいな分類だと、私と北朝鮮は「同じ左の仲間」で、その対極にいるのがネットウヨということになってしまう。実際にネットウヨはそう思わせるような情報操作を得意としているのだが、誰がどう考えてもこれはおかしいだろう。どうしたってネットウヨと北朝鮮とネオコンが「同じ仲間」であるとしか思えない

また、ある非常に真面目な保守系のサイトの管理人さんに「こういうネットウヨの行動をどう思いますか」と聞いてみたことがある。彼は「そろそろ退治すべき時だと思う」と答えた。
実際、まともな保守派や右翼の人々で、ネットウヨに強い嫌悪感を持っている人は多い。それはそうだろう、私だってもし「左派」を名乗ってネットウヨの裏返しのようなことをやっている輩がいたら、それこそ右翼に対する100倍くらいの嫌悪感をこのニセ「左派」に持つと思う。
それでまた、こういう真面目な右翼の方がネットウヨの仲間で、私は彼と対極にいるだと考えるのも非常に座りが悪いんである

これはもう、今までの「右翼左翼」に加えて、もう一つ別の区分というか、ものさしが必要になってきているように思う。
実はこの点については「太陽に集いしもの」様が面白い分類を提起しておられる。次回はこの分類法を素材にして、これからの政治に求められるスタンスについて考えてみたい。

このエントリーの一番上にある風刺絵はクリックすると大きくなります。気に入られたらご自由にお持ち帰りの上、あなたのサイトで使ってください。

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(2005/02/18追記)

maaと愉快な仲間たち」さんへの反応

上記サイトにてこのエントリーを取り上げていただいた。別エントリーをおこして反応しようかなと思ったけれど、この方とはあまりに話の前提が違いすぎて、とうていまともな討論になりそうにない。お互いに「あなたはそう思いますか。私はそう思いません」くらいにとどめておいたほうが良さそうである。

たとえばmaaさんは「社会が左側に偏っている」という認識のもと、現代社会は「左が当たり前」の社会であり、右翼の人々は「世界をあるべき姿(右ではなく中庸)に向かわせようとする人たち」のことであるという意見である。

ところが私は現代社会は絶望的なくらいに右に傾いており、左翼でも何でもない人々、つまり「よりよい資本主義社会」を目指すような穏健派すら、左翼よばわりされて袋叩きにあっている。この袋叩きを「祭り」と呼んで楽しんですらいる醜悪なエセ「右」翼がわんさかいるという認識である。私はこれを何とか「あるべき姿(左ではなく中庸)に向かわせようと」頑張っているわけだ。

また、maaさんは「なぜか国家の問題を心情で解決しようとする」と左派を非難するが、私は「理屈さえ通っておれば、どんなおかしな結論を出しても平然としている糞リアリズム=屁理屈」として、一部の右派(私が言うところのネットウヨ)を批難している。

こういうお互いの認識をぶつけあったところで、不毛な水掛け論にしかならないのは目に見えている。
もしmaaさんと私とで、多少なりともまともな討論が成立するとするなら、まずお互いの前提条件の部分、たとえば「右翼とは何か」「左翼とは何か」「中庸とは何か」というテーマだろう。ここの認識(用語)を統一しないと、討論にならない。同じ状態を指さして「社会が左に傾いている」「いや右だ」となってしまう。

付言しておくと、もの凄く右翼思想を勉強している本物の右翼の方は、確かに硬直した左翼よりも魅力的だし、説得力がある。こういう人はmaaさんが言うような「新しいソース」になんて頼らない。そんなものがなくても、それが正しい論理ならば、相手の論理の破綻している所をどんどん突いていくことができるはずなのである。
また、こういう人は「相手への批判から自分の正しさを証明する」ような”反反体制”ではなく、「自分の説の正しさを証明していく中で論理必然的に相手への批判が出てくる」ので、左翼批判もすごく説得力があるのである。

正直私は「新しいソース」なんてもんにほとんど興味がない。そういうものの真贋論争には、意図的に近寄らないようにしている。教科書に載っていて、受験問題にも出てくる事実を否定するなら、それはそれでやって下さい。私は何ともよう言いません。ただ、そこまで言うなら、私があなた方を説得するんでなくて、あなた方が私を説得する(心から納得させる)んが筋とちゃいまっか。。。という感じだ。

後、「私は左の人が他の人の意見で自分の主張を修正したところを見た事がありません」とのことですが、私は「左」の人が意見を変えるのを、悲しいくらいに山のように見てきました。逆に私は右の人が意見を変える所を見たことがありません。でも、それは批難にするようなことではないでしょう。別に意見を変えるのがいいことではないのです。それとも「左の意見」は間違っているのだから、それを変えるのは「そうあるべきこと」だという認識があるのでしょうか?

そんなことは全然どうでもいいことであり、もっと重要なのは「左の主張も右の主張も対等に扱う」こと、言葉を変えれば、相手の意見や言論、人格を尊重して自分の意見を言うことだと思います。
左翼は建て前として「言論の自由の尊重」という錦の御旗に弱いところがあるので、あんまり尊敬できないような硬直左翼も含めた一般的な傾向として「左派の人は左の主張も「右」の主張も対等に扱って自分の意見をのべる傾向がある」と書いたのですが、これへの批判として、前述の、「私は左の人が他の人の意見で自分の主張を修正したところを見た事がありません」が出てきます。これは論点が全然別なんで、まったくつながっていないと思われます。

まあ左翼は意見を変えないということですが(もしそうだとしても、それはいいことでも悪いことでもない)かつて私と同じ左翼組織の潮流に所属していた人が、現在では何をしているか、最後に4人ほどリンクで紹介しておきましょう。

まず一人目はこの人
次にこの人
この人は知っているでしょう
極めつけはこの人です

コメントを見る (22)

  • >主義主張とかモラルとか自分で「こういうものを持っている」と容易に客観視できるようなものではなく、
    >もっと根本的に染み付いた思考様式のようなもので、その時代に生きる人なら誰でも普通に持っている
    >価値観です。
    なんとなくですが、おっしゃっている事はわかります。その上であえて言いましょう。
      そんなモノには1円の価値もありません
    っと、ここで「これは金銭には換えられない価値を持っている!」とおっしゃらないように。百も承知です。以前、私が書いた文章をコピーしてきます。

  •  初めまして。
     ええっと、横入りするようで難なのですが、通りすがりの逸般人さんの意見に少し疑問があります。
    >ただただ純粋に、バランス・オブ・パワーが支配する世界があるのみです。
     確かに個々の主権国家が国益に対し忠実(合理的)に動けばこれは成立すると思いますが、現実にはそこまで合理性は高くないですよね。民主主義の国ならば世論に大きく政策が左右されるでしょうし、その世論は合理的でなく「イデオロギー」の影響を強く受けている可能性はあるでしょう。独裁的な国家の場合でも自分自身の価値観(イデオロギーとも言えるかもしれません)や支持者の価値観などが政策決定に絡んでくるはずです。為政者の立場において、(国益)<(自己の利益)であると仮定すれば、(自己の利益)を維持するためには国民の支持、各種利害、為政者個人の感情、宗教などに配慮した行動を採る必要があるでしょう。となると、「イデオロギー」も十分に国家の行動に影響を及ぼす可能性があります。そういう意味でいえば「イデオロギー」は決して無価値ではないのではないでしょうか。

     突然、議論の本筋と少しはずれた話題を出してしまいまして申し訳ありませんでした。何卒ご容赦ください。

  • とも さんへ
    >「イデオロギー」も十分に国家の行動に影響を及ぼす可能性があります。そういう意味でいえば
    >「イデオロギー」は決して無価値ではないのではないでしょうか。
     はい、影響を及ぼす事はあるでしょう。しかしそんな国は滅ぶだけです。貴方は北隣にあったあの大国の滅亡から何を学んだのですか?
    「為政者個人の感情」なんてものはそれこそさっさと下水に流すべきですが、そのほかの国民の支持、各種利害、宗教は、もちろん配慮すべきです。
     しかしそれは決して(私が使う意味でも草加さんが使う意味でも)「イデオロギー」などではありません。数値として評価し調整すべき利害関係に過ぎません。
     最初にも書きましたが、それが本当に国益の増大につながるのなら、私は原始共産主義ですら指示しますよ。どんな立派な主義主張もイデオロギーも、まず国民に衣食住を与えてそれを守り、可能なかぎり増大させる、その手段であり道具に過ぎないのですから。
     ……で、ここで最初に戻るわけですね。
    『右だの左だのというイデオロギーはどうでもいいんです』
     ……多少ゲスな言葉で言い換えるなら「右翼やったってギャラ出ないでしょ?」ということになりますか(^^;

  •  通りすがりの逸般人さん、丁寧なお答えありがとうございます。
     僕がこの場での「イデオロギー」をしっかり理解できているか不安になってきましたが、とりあえず。
    >共産主義や社会主義は国家(十分に成熟した資本主義国家)に損害を与えます。ゆえに彼らは社会主義や共産主義を否定するのです。イデオロギーとは道具であり、必要なときに必要なだけ使い、いらなくなったら捨てればいいのです。
    >最初にも書きましたが、それが本当に国益の増大につながるのなら、私は原始共産主義ですら指示しますよ。どんな立派な主義主張もイデオロギーも、まず国民に衣食住を与えてそれを守り、可能なかぎり増大させる、その手段であり道具に過ぎないのですから。
     と、ここから考えるとつまり、逸般人さんの考える「イデオロギー」というのは「国益」の基準に従い自由に交換可能なもの、「国益」達成のための手段である。ゆえに上位の基準たる「国益」が「イデオロギー」に縛られることはなく無価値である、とこういうことでしょうか?
     しかし、やはり疑問です。「国益」は果たして「イデオロギー」に対し本当に上位なのか。一口に「国益」と言っても人によって捉え方は様々です。GDPで測るべきだという人もいれば、国民の幸せを基準とすべきだという人もいる。そこに恣意性、個人の価値観、あるいは「イデオロギー(いまいち厳密に捉え切れている自信がありませんが)」が入り込んでしまうはずです。特に為政者の価値観などは大きく影響するでしょう。例えば、小泉首相などは好例ではないでしょうか。彼個人はいわゆる「構造改革」を主張し、財政緊縮を目指しています。そしてそれが「国益」であると信じている(はず)。しかし、現実には新古典主義的な緊縮財政指向が果たして不況下にあった日本の「国益」に適う行動なのか否かは疑問が残るところです。彼の政策はケインズ経済学の示唆するところの行動とは真逆ですし、そもそも不況(低成長)であることこそが「国益」であるという説(定常化社会論)もあります。しかも、首相はわざわざ自民党の反発を買ってまで財政緊縮を進めようとしていました。彼の価値観なり主義主張なりある種の「イデオロギー」に基づいて「国益」が規定されたのではないかと僕は思います。
     
    >はい、影響を及ぼす事はあるでしょう。しかしそんな国は滅ぶだけです。貴方は北隣にあったあの大国の滅亡から何を学んだのですか?
    「為政者個人の感情」なんてものはそれこそさっさと下水に流すべきですが、そのほかの国民の支持、各種利害、宗教は、もちろん配慮すべきです。
    >しかしそれは決して(私が使う意味でも草加さんが使う意味でも)「イデオロギー」などではありません。数値として評価し調整すべき利害関係に過ぎません。
     確かに利害関係です。理論的には数値化可能であるとは思います。しかし、利害関係自体に「イデオロギー」が絡むのではないでしょうか。各種利害関係者が利害だと思って行動しているその行動自体が「イデオロギー」によって規定されているということが有り得るように思えます。利害関係者が人間である限りは草加さんの仰っているように時代の常識という名の「イデオロギー」から逃れるのは至難でしょうし(19世紀ヨーロッパにおいては「進歩」の考えが疑いようのないほどに深く根付いていたらしいです)、宗教団体などは強力で独自な「イデオロギー」に基づいて動くのでしょう。
     例えばアメリカのブッシュ氏などはこの類の圧力を受けているのではないでしょうか。最近では以下のような例があります。
    http://www.asahi.com/science/update/0219/004.html
     これはブッシュ氏が国内のキリスト教原理主義的な「イデオロギー」に屈したものと言えるのではないでしょうか。西欧や日本が反発していることからもアメリカの「国益」に反する気がします。さらに、自国の産業・研究にも悪影響が出るはずです。これは「イデオロギー」に縛られて、特に国体保守の立場での「国益」に反する行動を取った例ではないでしょうか。
     
     「全てが効用系で説明可能であっても効用系により効用系自信の証明はできない。(ゲーデルの不完全性定理の真似)」そんな感じじゃないかと思います。効用系=利害(国益)を説明するために「イデオロギー」が必要なのではないでしょうか。仮にそうだとすれば「イデオロギー」を論ずることに価値があろうかと思います。
     
    追伸、管理人さんへ。
     有効なつもりでいたメールアドレスが実は有効でなかったようです。今回はきっと大丈夫なはずです。よろしくお願いします。

  • 流れと関係ない書込みで邪魔をして申し訳ありません。
    気になる点がございましたので…

    maaさんへの反応において

    >教科書に載っていて、受験問題にも出てくる事実を否定するなら

    と言った下りがありますが、史実と言われている物は常に新たな発見により変動(史実が変る、更なる裏づけがなされる等)しております。
    教科書などもそれに合わせて変更される事もあるのは周知の事実だと思うのですが。

    >正直私は「新しいソース」なんてもんにほとんど興味がない。

    と言うのは、歴史的事象を語る上では不適切かと存じます。
    事実と言われ、教科書に乗っていた筈の事柄も別の解釈に差し替えられ、当然受験問題も変化しております。
    せめて新たに史実とされた事柄を考慮に入れなければ議論の意味すらなくなってしまうと思うのですが…

    情報が乱立する現代において、何を信じ何を否定するかは非常に難しい選択かと考えておりますが、新たな情報に対して"興味が無い"と言うのはある種の思考停止かと思えます。

    新たに発見された情報があるのならば、それを吟味する事も議論・討論する上で必要不可欠ではないのでしょうか。
    「こんな情報があります」「そんな情報には興味がありません」では会話にすらなりませんので…

    情報に躍らされること無く、情報を使って行かれるのが寛容かと存じます。
    (あ、別に新たな情報が必ず正しいとか言っている訳ではありませんよ。ただ、歴史と言う物の都合上"情報は正しい可能性を秘めており、また逆もしかり"そんな事を言いたいのです。)

    話し変ります。
    私は右の意見も左の意見もそれぞれ選別し正しいと思われる意見を尊重することにしており、何できっちり右・左に別れてるのやらと思ったりもしてしまう人なのですが…
    自分を右・左に分けてしまうと見える物も見えなくなる気がするのですが…

    初めての書込みで生意気な事を申し上げている様で恐縮です。
    ただ、一人はこんな事を考えた人間も居るのだと、そんな風に捉えて頂けたなら幸いです。

  • ご丁寧な書き込みありがとうございます。
    基本的に乾也さんのおっしゃることに異論はありません。
    ご指摘の点につきましては、「教科書に載っていて、受験問題にも出てくる事実を否定」するのもいいことですが、教科書で教えられていることを否定するのは、何かを主張する時にはリスクが伴うことです。この場合、否定するほうが教科書を信じていた人を、あの手この手で説得してくれるのが筋だと思うわけです。それでその説得に心から納得できたら、なるほど世間のほうが間違っていたと思うであろうし、いまいち納得できなければそのままということです。
    このブログではいわゆる「歴史認識」問題を扱っておりません。扱う必要がないというのではなく、あらゆる問題を何でもかんでもあつかえるほど私の頭脳のキャパは広くありません。私の興味が赴くままにつぶやくだけの個人ブログです。何かの「使命感」をもって運営するほど、私は自分に自惚れていません。
    よって直接に扱っていない問題については、それぞれの主張について「聞く耳」さえ持っていればそれでいいと思っており、こちらから積極的にあらゆる問題を論じたりするほどの余力も必要もないと思うのですが、いかがでしょうか?
    いきなり乱入してきて「教科書に書いてあることが正しいと証明してみろ!」とか言われても、「何なんだ、お前!」ということにしかなりませんし、さっさと出ていけとしか言えません。
    要するに興味がないとしか言えないのですが、私の主張するところは、たとえば「南京大虐殺」が、あろうがなかろうが通用するところにあると思っておりますので、これに対して何かを教えて下さったり、不充分な点をご指摘いただく方も、「南京大虐殺」が、あろうがなかろうが通用する論理的地平でご教示いただければ、私としても嬉しい。そういうことです。
    これで回答になっておりますでしょうか。

  • 今、ふと思ったのですが,私が下のような認識をもっているのは、やはり(左翼の)活動家だった過去があるからなのかなと。
    だって活動家時代は、まず話を聞いてくれる人を見つけて(←簡単に言うけどここまでが一苦労なんだ!)そこから一生懸命に討論を重ね、相手の持つ疑問点にも丁寧に答えたり、自分達の立場を必死で説明したりして、やっと集会などに来てもらい、そこからまた討論を重ねてということを繰り返していたわけです。
    ちょっとやそっとの「資料」だの「証拠」だの「論証」だの繰り出したって、人はそうそう行動を変えるものでない。それを批難したってしょうがないので、なんとかそれを突破する方策を考えるしかないんだと良くわかっているんですよね。
    それに対して教科書の歴史を修正しようとする人たちは、ちょっと時代の風が自分たちに吹いているからと言って、人を説得することに、ちょっと甘えすぎていないか?と思う今日この頃なわけです。
    相手の方が自分の主張を理解してしかるべきだ、そうしないものは全部「左翼」だみたいな主張に感じるんですよね。
    たとえば左派の人が、「自分達の明らかに正しい主張に反対するものは、全部ファシストで小泉かブッシュの手先だ」とか「南京大虐殺はなかったなんて言ってる奴は、一人として一般人とは認めない」とか言い出したら、痛すぎると思うでしょ?

  • 早速のご回答ありがとうございます。
    ご回答に一々成る程と頷かされました。
    確固たる自己を持ち、自分をわきまえた範囲で物事を捉え考え言葉にしておられる事が解り、自分がまだまだあさはかであると恥じるばかりです。
    折角ご返答頂いたのに、私のボキャブラリーでは「その通りです」と相槌を打つばかりで…
    また気になる事が出来ましたらコメントとして寄せさせて頂きたく存じます。
    小生意気な事を言うかも知れませんがご返答頂ければ幸いです。
    貴重なお時間を私へのご返答に割いて頂いた事返す返す有り難く存じます。

  • >とも さん
    ……そうか、これが日本人の思考回路なのか……。
    いや、お気を悪くされたら申し訳ありませんが、あえて指摘させていただきます。その思考パターン、戦前に「八紘一宇」とか言ってた人と同じです。
    まず、私が以前に「カテゴリー・ミステイク」の話をしたのを思い出してください。私は国政、特に国際政治と外交のレベルでのお話をしています。その前提は忘れないでください。
     その上で、繰り返しになりますがあえて指摘します。その考えは、ファシズムよりなお悪い選民思想を生み出します。絶対に政治に持ち込んではいけません。「国民に衣食住を与えてそれを守り、可能なかぎり増大させる」以上に貴重なものがある、その考えこそが、近代になってもなお戦争を生み出す元凶なのです。作家の田中芳樹さん(……ああ、なんであんな人になっちゃったんだろうなぁ(T_T))がこんなことをおっしゃられています。
    『人間の社会には思想の潮流が2つある。生命以上の価値が存在する、という説と生命に勝るものはない、という説だ。人は戦いを始める時は前者を口実にし、戦いをやめる時は後者を理由にする』
     はっきり言います。私は人の命より大事なものは無いと考えています。ゆえに時に少数を犠牲にして多数を救わなければならず、「最大多数の最大幸福」を達成するという目的のためにあらゆる手段は正当化されるのです。マキャベリズムは究極のヒューマニズムなのですよ。
     小泉首相の経済政策についていえば、単に政策判断に過ぎないでしょう。「改革なくして成長なし」という言葉にはもう少し深い意味が込められていると思いますよ? クルーグマンの言うように現在の日本経済の状況が単に流動性トラップに嵌っているだけだとしても、その原因の大きなウェイトを占めているのが国民の心理的要因のはずなのですから。(クルーグマンは、構造改革が流動性トラップを解決するという考え方にかなり否定的でしたけどね)
    まぁ、マクロ経済に関しては「門前の小僧……」なので、あまりツっこまないでください(苦笑)
    ※それを言うなら、功利主義だって私はほとんど勉強した事は無いのですけどね(^^;
     ブッシュさんの例は……単にキリスト教右派(別名「異端審問と異教弾圧で死山血河を築いてきた最強の世界宗教」(笑))の票/指示が欲しかっただけなのでは? 単に(おおっぴらに)遺伝子複製(あえてクローンとは言いません)研究が出来る利益とキリスト教右派の指示が得られる利益を比較して後者を取っただけだと思いますよ。まぁ、口先でなんといおうとヤるときはヤる国ですからね、アメリカは。こんな宣言、当てにしないほうがよろしいのと思いますです、はい(笑)

    >草加 さん
    >「自分達の明らかに正しい主張に反対するものは、全部ファシストで小泉かブッシュの手先だ」とか
    >「南京大虐殺はなかったなんて言ってる奴は、一人として一般人とは認めない」
    ……すみません。そういう人は実在してます。ついでに言うなら、彼らが「サヨク」(≠左翼)、「プロ市民」と呼んで否定しているのはそういう人たちなのです。たとえば以下のURLをご覧ください。

    http://plaza.rakuten.co.jp/obiekt/diary/200501290000
    http://plaza.rakuten.co.jp/obiekt/diary/200501290000/#200501302051184237
    http://plaza.rakuten.co.jp/obiekt/diary/200502100000/

    所謂「平和運動家」に対しても、事実を事実として受け止める人たちに対しては、彼らはちゃんと敬意を払います。現在の状況は、草加さん自身が「痛すぎる」と評するようなファナティックな「サヨク」(≠左翼)、「プロ市民」があまりにも目立ちすぎた、その反動だと思いますよ。
    所謂「南京大虐殺」と呼ばれる事件にしても、一人も死ななかったなんて主張している人間は、30万人死亡説を唱える人間と同じように排斥されていますよ(^^;
    多くの人は「民間人を含む多くの死傷者が出たのはおそらく事実だろうが、『30万人死亡』は明らかに中共のプロパカンダだ。また民間人に多くの死傷者が出た原因の一端は中華民国(≠中華人民共和国)が負っているのではないか? 日本/日本軍だけを一方的に悪魔の使いのように叩くのはやめて欲しい」と言っているのではないでしょうか?
    ……確かにイタい人たちもいますけどね(^^; 上記のURLでウマい事を書いた人がいたのでそのまま引用させていただきます。
    「右翼とは『天皇陛下萌え』なサヨクだ」
    まったく同感でございます(苦笑)

  •  通りすがりの逸般人さんへ。
     こんな若輩者の戯れ言にお付き合い頂きありがとうございます。
    >はっきり言います。私は人の命より大事なものは無いと考えています。ゆえに時に少数を犠牲にして多数を救わなければならず、「最大多数の最大幸福」を達成するという目的のためにあらゆる手段は正当化されるのです。マキャベリズムは究極のヒューマニズムなのですよ。
     仰っていることは分かりますし、かなり同意します。僕自身の考えもサイトにも書いてあるように功利主義的、資本主義的だと思っています。「国家の政策は純粋に国民の利益(以下、最大多数の最大幸福の意で使います。まぁ、国体保守でも似たようなものですが。)を目指し、それ以外の観点での感情論等は一切排除すべきである。」実はこれが僕個人としての価値観にも合致し、ある種の理想(あくまである種のですが・・・)だとも思っています。この価値観は逸般人さんともある程度共有できているのだろうとは思います。
     ただ、この考えを主張し、かつ、他のイデオロギーの無価値を主張するには3つ問題があるように思えるのです。本当、理想的には最大多数の最大幸福を目指せれば嬉しいですけどね。
     
     1つ目はこの考え方自身がある種の価値観に過ぎないという点です。つまり、
    「国家の政策は純粋に世界の人民の利益の最大化を目指し、それ以外の観点での感情論等は一切排除すべきである。」
    「国家の政策は純粋に皇帝による徳の恩恵の最大化を目指し、それ以外の観点での政策判断は一切排除すべきである。」
     などが登場し、かつ「国益」にその行動が反すると思われた場合、「国益」ベースの価値観はそれらの主張を排除しうるような明確な根拠を持ちません。「なぜ『国益』=『最大多数の最大幸福』が他の価値観に比べ優位にあるのか」の問いに「国益」レベルだけでは答えられないのです。つまり、この非排除性ゆえに、「国益」重視という価値観自体が採用されるとき人間の「イデオロギー」なり価値観なり常識なりに左右されてしまうのではないかと思うのです。
     
     2つ目に「国益」を実際の政策における判断基準にしようと思っても、為政者自身が自己の利益のためにそれを無視する場合があるということです(広義には1つ目の論点に入るかもしれません)。そして、このために、間接的に国家政策が外部の「イデオロギー」の影響を被るのではないでしょうか。
    >ブッシュさんの例は……単にキリスト教右派(別名「異端審問と異教弾圧で死山血河を築いてきた最強の世界宗教」(笑))の票/指示が欲しかっただけなのでは? 単に(おおっぴらに)遺伝子複製(あえてクローンとは言いません)研究が出来る利益とキリスト教右派の指示が得られる利益を比較して後者を取っただけだと思いますよ。まぁ、口先でなんといおうとヤるときはヤる国ですからね、アメリカは。こんな宣言、当てにしないほうがよろしいのと思いますです、はい(笑)
     これです。いや、確かにただのポーズだったら別ですが、そうでないとして。支持を得る利益はブッシュ氏個人、及び宗教団体の利益にはなりますが、「国益」=「最大多数の最大幸福」の視点からいけば相当怪しいものでしょう。「国益」≠「為政者の利益」=「宗教団体の利益」=「利得関数(引数:宗教団体のイデオロギー)」ということです。無論、彼が「いやいや、私が大統領であること自体が国益だ。」(笑)あるいは「キリスト教右派の主張自体が国益だ。」などと言い始めたら3つ目の問題にすり替わる訳ですが。
     
     3つ目は「国益」の政策での運用上の解釈が個人、団体によって大きく異なる可能性があるという点です。例えば、滅茶苦茶に軍国主義な人は「最大多数の最大幸福」=「領土拡大」などと言うかもしれませんし、また、キリスト教右派な人は「最大多数の最大幸福」=「天国への切符」というかもしれません。先のブッシュ氏の例ならば「最大多数の最大幸福」=「俺の政策」かもしれません。つまり、これまた「国益」=「最大多数の最大幸福」基準だけからはどの主張を選ぶのかという判断ができない訳です。数値化するにしても真に客観的な数値化など存在しないでしょう。あくまで「ある価値観から見たときの」数値になってしまうはずです。この点で「国益」の解釈において「イデオロギー」が絡んでくる可能性があると思います。
     
     ゆえに以上3点において「国益」の観点のみで国家が政策判断をすると言うことは困難と言えるのではないでしょうか?どうしても何らかの「イデオロギー」が関わってしまう気がします。ゆえに「イデオロギー」には国家政策の観点においても意味があると思います。いえ、別に「イデオロギー」に基づいて動くべきだとか言っている訳ではなく、国家政策において(特にその判断)「イデオロギー」を真に排除することが非常に困難であることを主張したいのです。そして、困難であるがゆえにその影響力を認めざるを得ないのではないでしょうか。草加さんの発言を引用させて頂きますと
    >この資本主義的な時代のイデオロギーはそのまんまにして対決せずに
     やはり、国家の政策を判断する場合でも、しっかりとした「イデオロギー」の認識、そして「対決」が重要だろうかと思います。
    なんだか今までの主張の繰り返しの部分も多かったですがお許しください。
    ※僕も経済や功利主義についてはかじったぐらいです(笑)
     
     草加さんへ。議論をのっとってしまった形になってしまって本当に申し訳ありません。