もう7月に入りましたので、すでに先々月のことになりましたが、この5月3日、元戦旗・共産同議長の荒岱介さんが前立腺がんのためお亡くなりになりました。まだ65歳の若さでしたから、ずいぶんと早い死でした。
アルバム】5.9 荒岱介さん御葬儀マスコミ報道
私自身の左翼体験は、18歳から20代後半までの数年間、戦旗・共産同系の活動家としてのものです。ですからその当時、戦旗・共産同を「党首」として人格的に代表していた荒さんの死は、それなりに感慨があってもよさそうなものです。ですがなぜか荒さんの死に対し、良くも悪くもまったく何の感慨もわかなかったので、自分でもちょっと驚きました。中核派の北小路さんの死に対してのほうが、もう少し感慨があったくらいです。
かつて笠置華一郎さんの死に際して、湧き上がる感情を抑えることができず、私なりの追悼文を書きました(→【追悼】ずるいよ!笠置さん!)、また、同世代の活動家だったSさんの死に対して、どうしても一言いいたくて文章をかいた(→千の風になって)。そういう気持ちがどうにもわきません。もちろん、当時は関西にいた私にとって、荒さんのいる党中央が地理的に離れていたり、世代的にも離れているということも大きいとは思います。ですが、ある意味で私の人生を決定づけたとも言える人ですから、もう少し何かあってもいいように思います。思うに、上記お二人の追悼文を書いた頃とくらべても、それだけ個人としての戦旗派体験が、私の中でやっと消化されたものとなってきたのだと思います。
その意味で、そんなに身近に接していたわけでもない荒さんについての個人的な思いは、上記お二人の追悼文の中に出てくる記述だけでほぼ充分というか、それ以上に独立して書くことも、私にとってはないように思えました。一方、個人体験とは別に、日本の大衆運動史の中ではまたいろいろ書くべきことのある人なのですが、そのあたりはご自分で検索して調べていただければと思います。
指導者としては残念ながらかなり晩節を汚した面もあり、最後の頃にはこの『旗旗』で私のごときちっぽけな人間が書いた文章に激怒したり、あげくに私への物理的な「報復」を指示したこともあったらしい。賢明にも周りの人たちが止めてくれたおかげで事なきをえたそうですが、そんな情報までがダダ漏れで私にまで伝わってくるほど人心が離れたありさまでした。まあ、ちょっとくらい素手で殴られた程度で、いちいち「テロじゃテロじゃ」と大騒ぎする気もなかったし、良くも悪くも私の気持ちは変わらなかったでしょうね。一応は覚悟して待ってたくらいですから。その覚悟や精神は皮肉にも荒さん自身から教えられたものですけどね。
そんなこんなのいきさつはありながらも、どうも気持ちが晴れないというか、何か正体不明のモヤモヤしたものがあって、それを払拭するためというか、自分の中での区切りという意味でも、最後くらいはちゃんとお別れをしたいという気持ちがありました。それが前日になって、ちょうど仕事の合間に5月9日の御葬儀への出席が可能となり、これも天の声だろうと思って参列させていただくことにしました。
本当は私のような一般の人向けには、その前日に「お別れ会」が通夜を兼ねて催されていました。ですが私は仕事の関係で、どうしても出席することができませんでした。こちらには一般から350人の参列者があり、聞いた話では、私が知っている当時の元同志たちも多く参列されたそうです。
また、戦旗・共産同の後継組織であるアクティオの現代表である沢田さんも弔辞を述べられ、それが「なかなか良い弔辞だった」ということを聞いています。沢田さんとは一年以上も一緒に暮らしたことがあります。そして荒さんは最後はかなりギクシャクした関係で沢田さんとも疎遠になったまま、アクティオ(当時はブントという名称)の代表を「引退」するという経緯がありました。けど、そこにいる誰の人生も、荒さんによって大きく変わり、決定づけられてきた者ばかりです。そして一時は高い理想を信じて共に命を賭けて闘った同志であったのです。沢田さんの弔辞、聞いてみたかったと思います。
翌日の御葬儀については身内で済ませたいということでしたから、本来なら私は遠慮するべきだったかもしれません。ですが上記のような経緯があり、ご遺族には申し訳なかったかもしれませんが、できるだけ隅っこの席でひっそりとお別れをさせていただきました。葬儀は無宗教による献花。参列者は30人ほどで、荒さんの愛犬2頭も奥さんに連れられて「参列」していました。
11時から参列者全員で黙祷、続いて葬儀委員長でふじみ野市議会議員の鈴木啓太郎さんより、代表辞任以降から死に至るまでの経過を含めた説明などがありました。代表辞任後は「旅行などはおろか、家からもほとんど出ない、外で食事をすることなどもなく、二頭の愛犬を相手に静かにすごす日々だった」とのことです。壮絶な闘病についても報告がありました。前立腺がんが転移し、かなり苦しいものだったことが推察されました。荒さんは主だった新左翼指導者の中では、唯一と言っていいくらいの「体育会系出身者」で、同年代の中ではずば抜けて恵まれた体力と体格の持ち主であり、またそれを日々のトレーニングで晩年まで維持しておられました。それでもきっと苦しかったでしょうし、ご家族は大変だったろうと思います。
続いて、戦旗・共産同で荒さんと共に中央指導部だった 佐脇さんより、送る言葉(弔辞)がありました。佐脇さんも荒さんとは疎遠になっていった人だと聞いています。その佐脇さんより「二次ブント崩壊後に、『ブントをもう一度立て直してくれ、協力はするから』と頼んだとき、それを引き受けてくれてありがとう。そのために奮闘してくれて本当にありがとう。そしてごくろうさまでした」という言葉を、本当に胸に迫るような万感の思いと共に語られました。喪主として奥さんからは「本当に強引な人でしたが、どこか憎めないところもありました。今日、党派の枠をこえて来ていただけた人がいるのも、主人のそういうところがあったのではと思います。来ていただいた皆さんには、今日は本当にありがとうございました」という挨拶がありました。
献花のとき、荒さんの遺影の前で手をあわせました。心の中で自然に「ごくろうさまでした」という言葉があふれるようにわいてきました。そして最後のお別れとなり、荒さんのご遺体と対面したのですが、そのお顔は長い闘病生活の大変さを物語るように、すっかり痩せておられ、それが荒さんだとはすぐにはわからないくらいでした。わずかに頬骨のはった感じが面影を残しておられましたが、もうなんと言って(感じて)いいのかわからなくなりました。
棺のふたをしめ、参列者で棺を担いで荒さんを霊安車まで運びました。私も一緒に運びながら、18歳のころの私に、こうして荒さんの棺を担いでいる今日の日の40代になった自分が想像できただろうかと思い、数々の思い出がめぐりました。一度は人生を賭けると誓った組織からも遠く離れ、かつては互いに命を預けあった同志たちともバラバラです。そしてそんな私が、やはり最後は一人となって逝ってしまった荒さんの棺を運んでいるのです。日本の新左翼の多くは自意識ばかり過剰で、尊大な独りよがりでした。そんな中で、スターリン主義を内在的に克服し、「遅れた」人民からこそ学び奉仕する、そんな前衛党を作るために、私たちはかつて全力で駆け抜けた。本当に命を賭けた。最後は荒さん自身が自分でぶち壊したわけですが、私たちが必死で守り育んだ戦旗・共産同はもうありません。
「私たちは決して戦旗派をエピソードにはしない」と合言葉のように語っていましたが、今やそれは左翼運動史におけるエピソードのひとつとなりました。そうしてそれぞれの立場でバラバラになっていた当時の人たちが、私も含め、荒さんの葬儀にまた万感の思いで集まっているのです。もちろんそういう人ばかりではなく、たとえ死んでしまった後でさえ、「荒の葬式になんて絶対に行ってやるもんか」と言っている元同志たちも大勢いることも聞いています。それは人それぞれです。逆に私はそこまで嫌うほど近しくなかっただけとも言えます。
荒さんを乗せて出棺した霊安車の後ろ姿に、深々とお辞儀をしました。青春のすべてを戦旗派の一員として駆け抜けた日々は、誇りこそすれ何の後悔もないけれど、それでも荒さんと共に、いろいろなものが一緒に去っていったような気がして、その時こみあげるものがあり、目頭が熱くなりました。
だって今の私はあの頃の荒さんより年上なのです!それがどうしたと言われそうですが、そのことがまず信じられないのです。ふりかえればあっというまのことだったようにも思われます。同じだけの時間が流れたら、やはり私は逝ってしまった荒さんよりも年上になってしまうのでしょう。いったい私にはあとどれくらいの時間が残っているのでしょうか?そのあいだにどれくらいのことができて、何を遺すことができるのでしょうか。そのことを考えずにはいられませんでした。
荒さん!いろいろありましたが、本当にごくろうさまでした。そんなふうに素直に言えない人もたくさんいるでしょうが、今の私の立場、私の人生の中では、ただ一言それだけです。ごくろうさまでした。闘病生活も含め、本当にごくろうさま。晩年のあなたがどうであれ、また、かつての自分自身を否定したような最後だったとしても、やはりあなたが私の政治的な出発点における師であった。そのことは認めないといけません。とりわけ80年代初頭における内省的な文章の多くは、政治面のみならず、組織を離れた後の私の人生観にまで、今に至るも大きな影響を与え続けています。それは今の世の中を利口に生きるにはむしろ邪魔なものでさえありますが、それでもちっとも嫌じゃないし、むしろそういう不器用な生き方を守ってこれたことを誇りにさえ感じています。
根本において、人生なり魂なりを教えてくれた、私の第一の師はあなたではなく、笠置さんだと思っています。笠置さんはそれを貫いて人生をまっとうした。それがまたカッコいいです。ですがその笠置さんの教えを注ぐ器として、かつてのあなたの存在は私の中に生き続けることでしょう。たとえ当の本人のあなたがそれを否定したまま逝ったとしてもです。荒さん、あなた自身がわざわざ意識的に否定して見せたかつてのあなた自身ですが、せめて私がささやかながらそれを引き継いで生きていきたいと思います。別にそれはそれでいいですよね、荒さん。
追記:弔辞を述べられた佐脇さんも、この記事から二年後に荒さんと同じくガンで他界されました。佐脇さんがお亡くなりの直前まで執筆しておられたブログはこちらです
戦旗派内部組織総括
懐古的資料室
80年代ブントを語れ!スレまとめ
部外者の私ですが、荒岱介さんの訃報を聞いて何故か心のどこかがポッカリと穴が空いてしまったような感じでした。
学生時代に、共産党か戦旗派か逡巡して煩悶していた頃が思い出されます(笑)。
荒岱介さんのご冥福をお祈りいたします。
※草加さんの、戦旗派の野球かソフトの大会での『こんなオッサンの党派でよかった』みたいな感想は大好きです。
私にも電話連絡があったのですが、行きませんでした。お話したこともない方なもんで。
自分はもう辞めていた86年の過程は参考になりました。「08.三里塚二期決戦を熱田派と共に闘いぬく覚悟」の文章は、泣けてきました。大間の小笠原さん,六ケ所の菊川さん,坂井さんが、やり抜くと言っている以上、俺もやり抜く以外に道はないです。こうした文章から受けた影響が俺の中にしみついているとして、これが荒さんが書いたものなら、お話したこともないこの人の何かが、いや、俺が勝手に言っている「戦機派魂」ってのが、俺にも残っているんだろうと思います。
東通原発を再開させぬよう知事にプレッシャーかける運動をやりますんで、応援して下さい。
東行哲さん>
そういえばかつてそんな感想を書いたことがあったかな。何だったでしょう。ブログとかじゃなくて2ちゃんねるだったかな?
それにしても「共産党か戦旗派か」はずいぶんとすごい迷い方でしたね。いずれにせよ、荒さんの死に感慨を感じてくれる人がいるのは、思いのほかうれしいものですね。私らも荒さんのことはボロクソに言っていますが、それでも内情も知らない人に同じことを言われると、たとえ当たっていてもなんとなく腹がたつんですよ(笑
なのなさん>
86年の過程も、「私たちから見て」ということなんでしょうが、こうして一方の側からの視点を残しておくことも貴重なのではないかと思います。「あの時おまえらは」的なことに”ばかり”未だにこだわる人もいます。それはそれとして重要でしょうけど、特に私たちにとって、あの時代にどんな思いで必死に生き、闘って来たのか、そういう原点を見つめなおすことが大切かなと思います。
結局最後に人を動かすものは、理論やイデオロギーではなく、人としての生き様であり、口幅ったいようですがヒューマニズムというか、煎じ詰めれば「信義」なんでしょうね。それを胸をはって「今も守りとおしている」と言える限り、今はどんな生き方をしていようが、理論的に「転向」していようが、その人は決して卑劣な変節漢ではないと思うのです。逆に理論やイデオロギーを固守するために、当初の志を忘れて変節漢に成り下がる人が多いのが、左翼業界の現状ではないかと思っています。
たった今、荒さんの死を知りました。おそいですよね、今頃知るなんて。私が荒さ
んに会ったのはもう四十年も前の遠い過去の話です。確か下獄前だったと記憶しています。当時、熱烈ともいえる口調で野田、団、加藤、城山氏らと熱く語っていたいたのを記憶しています。そのご、しばらくして去っていった身としては彼のその後の変節に関しては全くしりませんが、おそらく、最も彼が輝いていた時かもしれません。私よりたった二歳しか年齢が上だけなのに尊敬していました。you are history–.
今、私の仕事は、市民社会の一員としての職業人とマルクスーエンゲルス全集をもう一度読み直して哲学と理論と思想の整備をはかり、これをなんとか次世代に伝えたいだけのささやかなものとなってしまいました。私の知つている荒さんに、さようなら。
異教徒さん>
そうですか。荒さんと所縁のある方のお目にとまったのなら、それはそれでよかった。エントリを書いた意義もあったというか、少しは供養にもなったのかなと思います。
かなりの大先輩のようで、戦旗派一期建設(ブント崩壊から西田派との分裂までの時期)の初期の頃でしょうか。野田さんというのは野田晋さんでしたっけ。もう私の世代には過去の文献に名前だけ出てくる歴史上の人でした。ただ、誰でも呼び捨てにする荒さんが、本多さんと野田さんと笠置さんだけは、話の中でも「さん」づけしていたような記憶があります。
お亡くなりになってから、当事の思い出を書いている方も多いのですが、私と同年代の方はほとんどおられなくて、荒さんと同年代以上、それもいわゆる12・18ブント系(こちらの言い方では野合右派系)だったとおぼしき皆様方の、恨み辛みみたいなのが多いです。
まあ、もう私自身は自分を「元戦旗派活動家」として位置づけるような気持ちもなくなって、そういう目でみられたりくくられ方をされても、不快というより不思議な感じさえするくらいですので、昔の荒さんがどうだこうだと悪口言われても、別に心が動いたり何かを感じることはありません。逆に異教徒さんみたいに故人を偲ばれると、少し胸の奥がちくちくしますけど。
ただねー、今さら「日向革マル」だの「軍事反対派」だの言われても、それは歴史的事実というより、あなた方の潮流の中でだけ流通していた特殊な用語や認識であって、ずっと後になってから運動に結集した私には「昔そう言う人もいたらしいよ」くらいで何の関係もなかったですね。はっきり言って。
だいたい私らの潮流の中では、それはそっくりそのまま裏返して「野合右派」の皆さんに対する評価だったわけです。戦旗西田派(現・統一委派)に対しても、私らはアダチグループとか蔑称で呼んでましたけれど、今では三里塚などの運動現場でごく普通に仲良くしてますしね。つまり何が言いたいかと申しますと、「もうそういうのはくだらないし、お互いにやめようよ」ということです。
>私よりたった二歳しか年齢が上だけなのに尊敬していました
うん、思うんですけど、荒さんって、尊敬していた人か、憎んでいた人か、そのどっちかばかりなんですよね。だからあるいは孤独な人だったのかもしれないなと、このごろは思うんです。あまり身近で暮らしたことがない私の想像なんですけどね。書くと長くなるけれども。
>今、私の仕事は、市民社会の一員としての職業人とマルクスーエンゲルス全集を
>もう一度読み直して哲学と理論と思想の整備をはかり、これをなんとか次世代に
>伝えたいだけのささやかなものとなってしまいました。
私も似たようなものですよ。どうかまたちょくちょく訪問して、あちこち見て回ってくださいよ。
もし何か書かれるようなことがありましたら、そしてこのサイトに置いてもよさそうなものでしたら、どうぞメールとかで送ってください。とりあえずご連絡は下記からお願いします。
http://bund.jp/modules/contact/
昔の戦旗派関係の文献なども、ちょくちょく採録しています。
http://bund.jp/modules/text/
死ぬまでに手元の文献が全部掲載できるかなーというくらいのペースですけど。それよりやはり今の運動や今の問題が優先ですから、こういうかつての資料はどうしても後回しになっちゃうんですけど、なんつーか、この国の大衆運動には全然「歴史」というものが存在していなくて、世代が変わるたびに同じ誤りを形を変えて延々と繰り返しているように思えます。だから運動資料の掲載というのも、わりと重要なこともあるのかなと。
せっかく異教徒さんに来ていただいたのだから、ちょうど荒さんが異教徒さんらと一緒におられた時期(二次ブントの崩壊から戦旗派結成当時)についての経過を書いた文章でも掲載しましょうかね。時間はかかると思いますけど。念のために言いますが「破天荒伝」じゃないですよ(笑)。ちゃんと戦旗・共産同時代のものです。
>私の知つている荒さんに、さようなら。
同じく。あらためて合掌。