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転載】金明秀氏による「反差別運動のあるべき姿」についての簡潔な解説

 以下は金明秀(キムミョンス)さんのツィートをまとめたもので、こちらから転載です。勉強させていただきました。今、とてもタイムリーで重要なことだと思うので、一日も早くと思い、転載させていただきます。
 なお金明秀さんには事後報告で大変に申し訳ないですが、不都合がありましたらすぐに消させていただきます。なお太字化は草加によるものです(もちろんイラストの選択もそうですよ(笑)。

【転載ここから】

.@kane031さん そういうことはありますね。家族間での意見の衝突は根深く刺さりますし。でもやはり、主張を精緻に切り分けて整理したほうが、色んな意味ですっきりするのではないでしょうか。
 ゆっくり、お考えを言葉にしてみてください。その間に、ぼくがどうしてこういう話をしているのか、背景を説明するツイートをポストしてみます。

 どっから説明したもんかなぁ。たぶん、歴史から説明するのがいいんだろうな。
 例えば @kane031 さんは、「共生」という言葉がどういう形で用いられてきたか、ご存知でしょうか。「多文化共生」でもかまいません。「共生」はマイノリティへの差別をやめて、社会に包摂しようという意思を表す言葉として80年代に登場した言葉です。後者はそれから派生した行政用語です。
 理念としては、文化的に異質な集団を異質性を残したまま日本社会に受け入れて仲良くしようという発想をもつ言葉ですし、実際にも、各自治体の多文化共生課では、外国出身の市民がそのエスニシティを否定されることなく地域に定着することを目標にいろいろな支援がなされます。

 ただ、「多文化共生」という名のもとで語られたり行われたりすることには弊害が多いということもよく知られています。例えば、文化的マイノリティを包摂する努力をすることなく、ただマイノリティに同化の努力を強いるような場面で「共生」という言葉が用いられたり、逆に、出身文化に強いアイデンティティを(まだ)感じていない子どもたちを民族交流イベントに無理やり出席させて、○○人役割を強引に演じさせたり。

 生物学の世界では、共生関係というのは、異なる種が絶滅寸前まで抗争しあった末に偶発的に到達する安定状態だとされているらしいですね。いっけん仲がよさそうに見えますが、むしろ相互に痛みを経験したからこそたどり着ける境地といったほうがいい。

 しかし、異文化接触に伴う痛みを知らずにただ仲良くやろうというような安直な文脈で用いられたとき、「共生」という言葉は、痛みの発生源であるマイノリティに対してある種の暴力として機能する場合があるわけです。
 じゃあ、「共生」という言葉や、その言葉を用いた包摂の取り組みはやらない方がいいのか。というと、そうではありませんよね。むしろ、「共生」という理念の安易な適用が発揮しうる暴力性を忘れないようにしながら、さらに包摂の取り組みを実践していくべきでしょう。

 いま、「共生」という言葉を例に出しましたが、他にも類例はたくさんあります。ある運動の理念や目標や手段が批判されたからといって、やらない方がいいということにはなりません。むしろ、批判を受け止めたうえで成長しなければ、独りよがりの暴力に堕してしまう危険性があります
 そうはいっても、いっけん矛盾する命題を統合する形で成長しないと(暴力と化してしまうかも)というのは、ずいぶん難しい要求であるように感じられるかもしれません。

 そこで具体例を考えてみましょう。大野さんのツイートをとらえて、ぼくは「目の前の差別に感じた憤りを声にする」ことと、「差別者としての当事者意識をもつ」ことは両立する、と書きました。これ、どうやって両立したらいいかわかりますか?

 この二つを両立するロジックはいくつかあると思いますが、もっとも簡単なのは、目の前の差別に反対を述べる短期的な運動に加えて、その差別を発生させている社会に責任を持つマジョリティとして自らの特権性を問い直す長期的な運動も同時に担う、ということでしょう。

 大野さんは、この二つを両立させるロジックとして、どういうものを想定しましたか? これよりももっと有効で重要だと思われるものを思いつきましたか? ぼくの想像では、これ以上に有効で重要なロジックは、おそらく考え付かなかったのではないでしょうか?

 どうしてそういう想像が成り立つかというと、この問いは、在日の運動界隈ではもう半世紀近くも問い直されてきた伝統的な問答で、今のところ、このロジックより有力なものをみたことがないからです。歴史に学ぶというのは、やはり重要なのだと思います。

 「共生」の例題。ある文化によって差別されている集団があるとしましょう。その文化を残したまま差別をなくして共に生きていこうという理念はいいのですが、そのためには、すでにその文化を失った人たちにも差別される文化を強要してしまう側面もある。どう両立したらいいでしょう?

 文化によって差別されている社会構造の解体を究極の目標としながら、それを実現するためにはその文化を前面に押し出さざるをえない。それは時として暴力になりうる。なら、個々のメンバーの状況を丁寧に見ながら個々に判断するしかない、が一つの有力な回答です。

 これは他にもいくつか有力な回答がありますし、さらに有力な回答を求めてたくさんの人たちが議論しています。が、重要なのは一つの「正解」ではありません。たくさん批判を受けて、たくさん留保をつけながらでないと、社会運動は暴力になりかねないという理解こそが重要なのですね。

 「目の前で起こっている差別に憤って当然だし、加害をやめさせたり被害を回復させたりしようとするのも当然だ」には誰も文句はないと思います。緊急性に鑑みて「まずはやらせてくれ」というのも説得力があるとぼくは思う。でも、批判を嫌がるようなら、その運動の先行きは危ない

 どんな手法を選択しようと、おそらく永遠に批判はなくなりません。完璧な社会運動というのは原理的に存在しないからです。ある要望や批判は聞き入れ、別の要望や批判は受け入れられないということが必ず起こる。そこで選択するものによって運動の真価が問われるとぼくは思います。

 ということで、批判されることそのものを嫌がって議論しているうちは、運動の入り口にも立っていないとぼくは思っています。むしろ、自分が変わることを嫌がる人たちが「共生」を口にすることのおぞましさを、多くの民族的マイノリティが知っている以上、批判は増すばかり
一つの運動のやり方を選択したら、それに敵対するものを攻撃するのは政治手法としてあっていいと思います。ただ、どうも今は、むしろ運動を支持しているけれども懸念はあると言ってくれている人たちを敵対勢力だとカテゴライズしているだけなのではないかと思えて仕方がありません。

 ぼくはかつて、レイシストしばき隊(への批判)を念頭に、こう書きました。

自分が今ぼこぼこに殴られているとき、ソレを止めに入った人のエルボーをくらったとしても、まだマシならそれでいいや、ぼくは。

金明秀 KIM, Myungsoo (@han_org) February 16, 2013

けど、エルボーが入ったらふつーに痛いですよ。「痛い」と声をあげても「こっちが先や!」とかいって気にもしない人がいたら、そりゃ、懸念はよせられますよね。

 以上の話を整理すると、大野さんが差別に感じた憤りはとても大切だと思いますし、そのために運動に参加するという気持ちと行動をぼくは支持します。ただ、

(1)批判を敵対的なものだと考えず、丁寧に相手と主張を見極める姿勢、
(2)聞くべきところがあれば自分が変わることをいとわない姿勢があれば、もっといいのにと思います。自戒も込めて。以上です。

 ある運動を批判する人たちにもぼくはいいたいことがある。それこそ「セクシュアルマイノリティを正しく理解する週間」のときからずっと言いつづけていること。っていうかすでに書いたな。

一方で、批判する側にもマナーみたいなものがある、とぼくは思う。一つの運動を担うというのは大変な作業だ。その前線に立つ者が払っているコストは思いやる必要があろう。たとえ、それが自分(や自分にとって大切な人たち)にとって迷惑になる側面がある場合でも、だ。最初から完璧なものなんてない。

金明秀 KIM, Myungsoo (@han_org) March 3, 2013

 このツイートに対しては、野間氏が「マナーの問題に矮小化している」みたいなことを書いていたけど、それはナンセンスな話だ。なぜなら、マナーというのは個々人の心配りのことではなく、社会を運営していくうえで必然性があって存在している社会規範なのだから。

@han_org ツィートを拝読しましたが、どんな運動も組織も、批判を封じ込めたら窒息するように思います。非常識な在特会に抗議する反レイシズム運動は賛成。だけどその運動こそ、批判を受け入れる余地を忘れてはいけない気がします。趣旨が違っていたらすみません。

Kazu Tsuruda (@KazuTsuruda) March 9, 2013

@kazutsuruda いえ、まさにそういうことです。ありがとうございます。

【転載ここまで】

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 私が何年にもわたって何回も何回もグダグダと書いてきたことを、こうまで簡単にわかりやすく説明されてしまいますと、もうその圧倒的な文章能力の差に愕然としてしまいます。しかもこれ、ブログの文章とかじゃなくて、全部ツィッターでさらっとつぶやいたものなんですよね。

 金さんがおっしゃるように、世界中すべての人が納得する運動というものは存在しません。批判の存在自体は絶対的に許容しなくてはならないんですよ。なぜなら運動というのはすべからく、その外部の人間に対しては抑圧的な存在になりうるからですね。そういう運動の抑圧性という自覚は必要なんです。それこそ人間解放や社会正義を掲げて誕生した運動が、他者を抑圧する存在に堕していった歴史に学ぶべきです。そこで重要なのは、彼らはそういった堕落を「正義」または「理不尽な攻撃からの正当防衛」だと固く信じておこなってきた(いる)ということです(「奴は敵だ!敵は殺せ!」の思想)。その歴史的な教訓が一番重要な点です。自分が正しくて相手が間違っていると信じている人ほどやっかいな存在はありません。それならまだ損得利権で動いている人のほうがよっぽど扱いやすいとすら言えます。

 よく「セクト主義」とか言いますが、その本質はなんでしょう。それは運動の内部では仲良しクラブだったり、ちゃんとした民主的な運営がされているのに、運動の外の人間(個人や他の運動)に対しては同じような対応がとれない、自分達の仲間内と外での差別・分断が止揚されていないという問題のことです。もし、内部でも異端意見の排除が行われているのなら、それはもうセクト主義以前の問題で、そんなの山賊の集団みたいなもんです。
 そしてこのセクト主義ってのは、別にセクト(政治党派)に特有の問題ではなくて、ノンセクト学生(政治的に活発な一般学生)や市民運動でも顕著にみられます。むしろ市民運動などのほうが、いったんセクト主義化すると、党派などよりよっぽどエゲツナイ排他性を見せることが多いのです。「このセクト主義者め!」と言いながら、他人を運動から排除すると言うマンガが行われているわけですが、そのおかしさに気がつかないのは本人だけというわけです。

 とは言え、およそすべての批判意見を受け入れるわけにはいきません。そこにはおのずから取捨選択があり「そこで選択するものによって運動の真価が問われる」ことになるわけで、批判を容認し、その声に耳を傾けるというこを大前提にしつつ、そこで一番大切なのは、敵対矛盾と内部矛盾の区分けです。たとえば反原発運動なら、原発推進派からの批判には非妥協に反論して突っぱねると共に、内部の意見対立では相手の立場や考えを尊重して、共に闘える道を模索するなどです。これは警察の運動への懐柔や弾圧、右翼や政治家などとの対応において特に問われていく点で、ようするに節操の問題でもあるわけで、まさに運動の質が問われていく場面です。ここで運動内部の異論には厳しくあたり、警察の弾圧にはへいこらして(たとえ意見が違えども)内部の仲間を守らないようでは、何をかいわんやということになります。

 あと、運動を批判する側にもマナーが問われるというのは、いつも書いている通り、私の場合は自分に対して気をつけていることですね。私は他人にそれを強要しようとは思いません。ただ、マナーとは気持ちの持ちようとかそういうことではなくて、社会規範の問題なのだという洞察には、そうそう、そうなんだよ!と膝を打つ思いがしました。「何もしてない奴が口をだすな」とかそういう意味ではなく、外部から意見を言うものには、「無責任な立場から発言する者の責任」みたいのがあると思う。運動の側の都合も考えずに、一方的に「正しいこと」を言って潰しにかかるようなことを言ってくる人は、さすがの私も筋が悪いと思う。

 マナーについてはですね、その「マナー」を誰が守るべきかと言えば、それは自分が守るべきに決まってますね。相手にそういうことを要求も期待もしないほうがいいです。しても欲求不満が高まるだけですから。自分が守っていればそれでいいんです。
 それでまあ、どちらにせよ、せっかくネットがあるのだから、運動に関わっている人の内部だけでなく、いろんな人がいろんな立場から意見を出すことで、みんなが運動の未来に「参加」することというか、参加していただくという姿勢がこれからの新しい運動には必須だと思う。耳に心地よい意見ばかりでなく罵詈雑言も含めてね。それも仲間なんだから。逆にどんな甘言を弄してきても、警察は「味方」ではないよ。そこは節操の問題です。裏切り者は誰からも信用されません

 あと、一番大切な点。ここで論じていることは、運動側の主張や、それへの批判が、「正しい」かどうかは全く関係のない別問題だということです。相田みつをさんも言ってます。「まちがったっていいじゃないか、にんげんだもの」。そう、人間のすることです。運動も必ず間違えるのです。無謬の人間や運動なんていません。だから別に間違ったっていいんです。問題は間違いに気がついていつでも修正できるような、そういう自己批判の回路を24時間常にもっているかどうかなのです。それが成長ということでしょう。だからそれができない運動は成長がなく、「まだ運動の入り口にすら立っていない」と思うのです。特にそんな抑圧的な運動や人間が、「反差別」を語るなんて、「おぞましい」の一語に尽きます。

 たとえばシングルイシューなんて横文字が流行していますが、そう言ってもなにがしかの「社会問題」に取り組むということは、すなわち「社会を変える」ということと同義です。そしてその「社会」の中には自分も含まれているのです自分は変わらずに相手だけ変えようなんておごりでしかありません。むしろまず自分が変わることで対象も変革されていくのです。そして対象が変革されていく過程で自分も変わらざるを得ません。批判や議論でも同じことです。相手だけ変われというのはファシストの思想です。

 煎じ詰めて言えば、これからの運動は「複数主義」ということがポイントになると思います。運動の内部的にも外に対しても。はっきり言いますが、「俺は正しい(新しい)。奴らは(古くて)間違っている」という観念に凝り固まり、そんな「正しい自分(たち)」が拡大していくみたいなイメージを語られる運動は、まさに60年代への先祖返りもはななだしいものです。恐竜なみに古いと申し上げるしかありません。

 しかしねえ、今、一部のネットで繰り広げられているこの手の話題というか罵り合い(と書いたら両陣営から叩かれるんだろうけど)って、見ていて本当に嫌だし消耗します。おそらくね、どちら側にしても、これを見た一般の人は近づきたくない、この中に入りたくないと思うでしょうね。これは左翼が衰退していった歴史をそのまんま繰り返しているにすぎないんですよね(内ゲバ主義)。今はまだ拡大期なのかしれないし、レイシズムに腹をたてている人が次々来るから目立ちませんが、数年以内にボディブローのように効いてくると思いますよ。お互いに「自分が正しい」「こっちが被害者」だけじゃなく、もっと大局的なところから、そのことに早く気がついてほしいと願っています。

「おいコラ!在日!」と言われた時
6・16新大久保カウンター行動の逮捕者を救援しようーまずは「逮捕おかしいぞ」の声を
桜井会長釈放記念(笑)ー「韓国の桜井誠」
何度でも言う。差別は「言論」ではない
議論するのはいいことだ(上 (下-「テント村を守ろう討論会」に参加

いわゆる「外国人犯罪」に関して
「基地外」と書く差別者達
「浮浪者は死んでもいい」 ホームレス殺人未遂 少年らの「論理」
いまさら在特会の蕨デモを擁護する人
糞をよけるのは怖いからでなく汚いからだ-「在特会」の小学生襲撃事件について考える

三里塚と昭和天皇と金日成(前編 (中編 (後編
人を殺して埋めてしまうことはそうそうないとしても
初詣の思い出
「障害者」は同じとか違うとかの話-私がであった人たち
「在特会」についての当面のまとめ

「お前ら古い」と言う人のほうが実は「古い」のではないか
「普通の人」というレトリックの本質について
右も左もない」ではなくて、「右も左も全部ある」のほうが楽しい
左翼コンニャク問答
「ネトウヨ叩き」現象は他人事ではない

「反中・外国人排斥行動の実態」というメールをいただいて
「ネトウヨ叩き」現象は他人事ではない
◇人種差別撤廃条約の講座に参加してきました
イルムから―当たり前に本名が名乗れる社会を求めて
高校無償化からの朝鮮学校排除の問題について
民主党の「エエカッコしい」に使われているだけの朝鮮学校排除

「君が代」の替え歌で懲役2年もー自民党が法案提出を検討
野宿労働者への襲撃事件に思う
祇園暴走事件と てんかん患者への差別(上 (下-もういい加減にしてほしい!
中核派本多暴力論批判-昨6.11新宿の騒ぎによせて
自然な正義感が出発点にならなければいけないと思う

(よけいな追記)

 しかしまあ、私は、たとえば会場の中で口論になって、そのままヒートアップして殴り合いになっても(もちろん周囲の人は止めますが)次の集会ではちゃんと同席して共闘し、前のことは「お互いさま」でそんなに問題にならない(?)ような世界にいたからなあ。別に罵詈雑言とばしあうくらいかわいいもので、たかがそんな程度の対立を、運動内の対立にまで持ち込むな!くらいの感覚ですから、ちょっと一般的ではないかもね(笑)。多少罵倒されたり、素手で少し殴られたくらいはご愛嬌くらいにしか思いません(計画的でなければね)。ただし私以外の他の人が殴られたら別ですよ。

 そんな世界で、殴られたくらいは「お互いさま」ですましても、たとえば「女だてらに……」とか、そういう差別的な言辞、弱者をいたぶるような言葉を吐いたものに対しては、絶対に許さなかった。それは「お互いさま」ではない。相手が全面的に本気で反省して自己批判するまでは、意地でも許さないみたいな。そういうある種任侠みたいな世界にいた者の感覚ではあるわけです。
 まあ、昔のことで、今となっては懐かしいばかりですので、ちょい美化して書いているとお思いください。

コメントを見る (25)

  • 私のコメントに、大きな反感と憎悪を買ってしまったと思い、しばらく遠ざかっていました、
    もし、許容できないと思われるようでしたら、削除してください。

    多文化共生を、国内に当てはめて考えた素朴な感想ですが、
    日本の各地方・郷土の文化は、その地方にあるから意味があると思うのです、
    極端な仮定ですが、
    大阪や兵庫の「価値観・文化」を、山形や秋田でそのままの形で維持し共生し続けることは、
    良いことで、推進すべき素晴らしい事なのだろうか、と考えた時に、否定的な感情しか浮かばなかったことです、
    うまく、理屈で表現することができませんが、
    今地球という惑星規模で、実現している多文化共生を、むりにスケールダウンして、モザイクにすることが、
    はたして「良い」ことで、積極的に進めるべき事なのだろうか?と思ってしまうのです。

    ただ、差別や暴力による排除などは論外で、それを認めるわけでありません。
    とりとめのない話で、申し訳ありません、衆愚のたわごとと思って流してください。

    • 私も羽賀さんと同じくうまく言えませんが、ただ、大阪や兵庫の人が山形や秋田に住むことは実際にあるわけですよね。中国・四国地方にルーツのある方は関西にも多くおられますし、東北地方にルーツのある方も東京に多くいるという感じでしょ。そういうのはもう社会が発達していく過程では仕方ないんですよ。今はそれが地球レベルでおこっているんです。

      いいことばかりじゃないのは私でもわかりますよ。でもこれは長期的には止めようがない。だから知恵を出していくしかない。安倍政権は耳障りのよい「女性の社会進出」という言葉で、女性を「私的」な家事や介護の場から、労働市場に引っぱり出すことによって、少子高齢化による労働力不足を解消して経済成長も続けられると言いますが、実際には根拠のないことでしょう。

      確かに「多文化共生」という言葉は、かつて私も好きでしたが、最近では懐疑的になっていることは事実です。ただしこれを超える理念は私ごときでは思いつきませんので今でも使っています。が、やはりエントリ本文にありますように、「重要なのは一つの『正解』ではなく、たくさんの、本当にたくさんの留保をつけながらでないと、社会運動は暴力になりかねないという理解」なんだろうなということです。

      モザイク的な文化についての印象ですが、単に印象の問題で言えば、私のもつ原体験が大きいのかもしれません。そのことについては過去のエントリで書いたことがあります。
      http://bund.jp/modules/wordpress/?p=3976
      http://bund.jp/modules/wordpress/?p=3993
      私にとってそれはとても居心地のよい、素晴らしいものでした。それも左翼がどうのといった政治的な世界ではなく、もっと日常の仕事や市民生活の中で経験したのがよかった。左翼時代も確かに「多文化共生」ではありましたが、誤解を恐れずに言えばそれは「正解」が限られた平板な世界で、あまりモザイクといえるほどのものではなかったように、今となっては思えます。

      羽賀さんのあげられた地域文化についても、特にここ20年ほどは加速度的に、東京的な単一文化に染められ、地域の顕著な特色や言葉が失われているようで不満なのです。「県民ショー」とかで面白おかしく紹介される「地域の常識」なんかでも、関西が紹介された放送回を見た印象では、40代とか50代以上の人でないと通用しない「常識」もかなり含まれているように思います。逆に10代や20代でないとわかんないものもあろうし、そういうのを全部ひっくるめて安易に「何々県民の常識」としているだけで、実際には地域の特色が絶滅していく過程にある。そういう単一化は私は好きでないんです。

      逆説的に言えば、日本文化を大切に思うのなら、むしろモザイク化は必要で、そうでないとアメリカ的な「常識」に日本なんぞは簡単に飲み込まれてしまう。多文化共生を社会で普通に語れるような国のほうが、むしろアメリカ的なるものに対抗意識や独自性を主張する傾向があるんではないかと。まあ、その内容が何かしらよいものであるのかどうかはわかりませんがね。

      最大限綱領的に(「それができれば苦労はないよ」的なレベルで)言うならば、結局は「すべての人が自分らしく生きられる社会を」「『生き方』を強制するな」「どんな『生き方』を選択しても制度的・法的に不利になってはいけない」ということになろうかと思います。エントリ本文にある「個々のメンバーの状況を丁寧に見ながら個々に判断するしかない」という言葉は、つまりそういうことを言っているんだと思います。私は自分の原体験から、なんでそれが普通にできないのか、なんで他人に自分の生き方を強要するのかと思います。それはイデオロギーの社会的な再生産、つまりそうすることによって得する人がいるからで、社会変革の闘いなしに差別はなくならないということになるのですが、一方で「みんながそう思えば簡単なこと(ジョン・レノン)」でもある、つまり充分に実現可能なことでもあると思うのです。

  • RT @aosakana: 是非ご一読を。ご謙遜なさってるけど草加さんの文章力も視点もすばらしいと思う。 - 転載】金明秀氏による「反差別運動のあるべき姿」についての簡潔な解説 http://t.co/dhqEKSyZBI

  • RT @aosakana: 是非ご一読を。ご謙遜なさってるけど草加さんの文章力も視点もすばらしいと思う。 - 転載】金明秀氏による「反差別運動のあるべき姿」についての簡潔な解説 http://t.co/dhqEKSyZBI

  • RT @aosakana: 是非ご一読を。ご謙遜なさってるけど草加さんの文章力も視点もすばらしいと思う。 - 転載】金明秀氏による「反差別運動のあるべき姿」についての簡潔な解説 http://t.co/dhqEKSyZBI

  • RT @aosakana: 是非ご一読を。ご謙遜なさってるけど草加さんの文章力も視点もすばらしいと思う。 - 転載】金明秀氏による「反差別運動のあるべき姿」についての簡潔な解説 http://t.co/dhqEKSyZBI

  • 草加様へ
    表現が稚拙で、伝えたいことをうまくかけません、ごめんなさい、

    たとえ話で言いたかったことは、大阪兵庫の家族の人が、山形秋田の地で4世代5世代にわたって、
    関西人として関西文化を主として持ち続けて生きるべきかと、考えた時の違和感でした。

    出身は関西だけど、わたしらこっちの人間だよっていうのが、そこに定住する人の素直な感情だと思うのです、
    それをしない人できない人 というのは、帰ることが前提か、その地に嫌悪感があって一緒になりたくない人でしょう。
     
    わたし自身考察すると、帰る地があって、そのつもりでいる人には、ああ、外の人なんだなあって感じますし、
    地元がきらいって人とは(何で嫌うのって聞きますが)、距離をおいてしまいますので、
    どちらにしても、地域住民の一員というより、お客様としての認識に近いかもしれません。
     
     ですが、上記のように帰る予定・地元を嫌いな人が、
     ここに住んでるんだから集落の補助をもらいたい、
     それは権利ですよって物言いをしたら、それが正当なことでも、
     なにがしかの嫌悪感情が芽生えてしまうのを、否定できません、
     冷静さと品位を保つのは、高度に知的な振る舞いなのだなあ、
     と反省をしてしまいます。

    ※先住民としての少数者と、ごちゃまぜにしてはいけませんので、
    頭の中を整理するためにたとえ話にしました。