北西風をこえる党 戦旗派84年下半期総括

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六、わが同盟を「反革命」規定する中核派の誤り

 八五年を文字通り決戦として闘い抜くにあたって、わが同盟が八四年秋冬期の闘いから捉え返しておくべき点は、以上のようなものである。次に現実の政治攻防において問題とならざるをえない革共同全国委員会の「八五年年頭論文」(=『前進』一二一七号)での方針提起との関連で、われわれのおかれている政治関係を対象化しておこう。

 そこでは彼等は「八五年三月蜂起戦の勝利こそ一切の鍵」と言い「三月蜂起戦は、すでに九・一九を越えてきている以上、あらゆる意味で十月蜂起戦を越えるものでなければならない」「十・一〇をはるかに越える結集ということはけっして空論でも何でもない」とまずもって八五年三月三里塚大結集を主張している。と同時に「われわれは『対カクマル戦を新たに十年やりぬく』決意を固め、その戦闘宣言として、きたる三・一四十周年を復讐戦貫徹のうちに戦敗しようとするものである」と、再度カクマルとの党派闘争におどり込んでいくことを宣言している。
 そして肝要なのは「この対カクマル戦貫徹」という方針の物質化において、「脱落派・第四インター、日向派(注:戦旗・共産同への蔑称)を戦争的に打ち砕く」ことが叫ばれている点である。つまり「部落解放運動をみても、日韓闘争をみても、婦人運動をみても、革命的左翼の否定派の大右翼連合とのたたかいが決定的となっている」「右翼スターリン主義=構改派、中国派、プロ青と日本の声派、第四インターと日向派、中間主義と解党主義の反革命的反動的連合が革命的な人民の運動の前面に立ちはだかり、日帝・国家権力と反革命カクマルを利して、運動を腐らせながら足を引っ張っている」という全く主観的な問題把握がここでなされているのである。「六〇年闘争の第四インター、構改派、七〇年闘争のカクマル、第四インター、日向派、七〇年代対カクマル戦争の十年間のなかでの第四インター、日向派のようなうす汚れたあがきをわれわれは今度は絶対に許さない」というように。

 その骨子となるのは「脱落派の八四年三・二五集会以降の敗北のとり戻し的策動を粉砕するたたかいとして、脱落派への政治的イデオロギー的たたかいを組織しつつ第四インターせん滅戦を何度も戦敗することは決定的である」というものであるが、問題は彼等が熱田派反対同盟系列との闘いを対カクマル戦と同様のものとして遂行する必然性を、革命論的に作りあげようとしており、そこにおいて熱田派支援系列の最大動員党派であるわが同盟を、「反革命」と概念規定して打倒の対象にすえつけたことにある。
 要するに中核派は八三年三月分裂以降の第四インターやわが同盟との確執の過程を、そのようなものとして手前勝手に位置づけてしまったのである。わが同盟を「反革命」呼ばわりするのは、彼等が反革命と位置づけた熱田派にわれわれが属するからという以外の如何なる理由も、もちろんそこにはない。

 それが全く矮小な規定でしかないことは言うまでもないが、ともあれこうした革共同の主張をこの間の政治攻防との関連で、彼等が考えていることの内容性として分析するならば、それは以下のようなものになる。
 すなわち ―八四年十・十と十・一四の対比をみても明らかなように、北原派こそが反対同盟の主力であることは力関係的に刻印されるに至った。その意味では対脱落派の攻防は勝利的に完遂された。その間げきをぬって京大、東北大、和光大などで再度ぶつかりはじめたカクマルとの結着を、八五年にあっては明確化させるために闘い抜く以外にないのだが、そうして自分達が対カクマル戦に没頭している間に、つまり主観的には自分達が国境警備隊の役割りをはたしている間に、七〇年代に見られたように三里塚闘争などのヘゲモニーが自分達以外(例えば第四インターやわが同盟)に移行してしまうことは絶対に許してはならない。「漁夫の利」を得させてはならない以上、対カクマル戦、対日帝戦においてバリケードのむこう側にいったと自分達が勝手にみなした部分は、対カクマル戦の一部としてこれとの闘いを遂行する必要がある ― というものである。
 ゆえにまさしく「先制的内戦戦略の高次化(PⅡ)」段階を今闘っているという中核派が、われわれとの党派攻防を革命論的に概念規定したという点で、この問題設定は注目にあたいするものなのである。文字通りわが同盟は彼等の「民間反革命との闘い」の中に繰り込まれてしまい、打倒の対象として存在意義を与えられたというわけなのだ。

 こうした問題設定はもちろん全部間違っている。第一に日帝国家権力、中曽根政権の一部ないしは補完物のように、自分達を直接支持しないものを概念規定するのは、一九二〇年代~三〇年代にかけてのコミンテルンの「社会ファシズム論」=「社民とファシズムは対立物ではなく双生児である。社会民主主義は客観的にはファシズムの穏和な一翼である」(スターリン「国際情勢について」一九二四年)という問題設定と全く同じの独断的スターリン主義路線である。

 スターリンの支配するコミンテルンの指導にあっては、この結果例えばドイツ共産党は、一九三一年八月社民を反ヴェルサイユ体制の闘争を行わない敵と規定し、ナチと統一戦線をはってプロイセン州政府打倒の人民投票さえ行うなどの暴挙に出たのである。しかし結果的には共産党の勢力は細り、ナチに対して勝利をおさめることができず、共産党の孤立だけをもたらしたのであった。それに対し一九三五年コミンテルン七回大会に至って、今度は「反ファッショ統一戦線」というデミトロフ路線にのりうつり、社民と共同してナチと闘う等という手前勝手なジグザグを繰り返したのである。
 中核派の路線は、文字通りこの「社会ファシズム論」と同じ陥穽におち込んでいる。自分達に賛同の意を表しないで敵対したから熱田派はみな敵だ、つまり反革命だというのは何のマルクス主義的概念規定ともいえず、文字通りの宗派主義の産物でしかない。

 第二にかくの如き中核派の独断的セクト主義、何でも断言してしまえば左翼的になるのだという「反革命」規定を連発する発想は、百%の左翼小児病の誤りだという点である。

 例えばレーニンはドイツの「左翼」共産主義者を批判する論点において次のように書いている。
 「ボリシェヴィズムの歴史には、十月革命のまえにもあとにも、迂回政策や協調政策や、ブルジョア政党との妥協も含めた他の政党との妥協政策をとった場合がいっぱいあることを、ドイツの左派が知らないはずがない」
 「小ブルジョア民主主義者(メンシェヴィキも含めて)が、ブルジョアジーとプロレタリアートのあいだ、改良主義と革命精神のあいだ、労働者に対する愛とプロレタリア独裁の恐怖とのあいだ等を動揺することはまぬがれない。共産主義者の正しい戦術は、この動揺を利用することであって、けっしてそれを無視することであってはならない。この動揺を利用するには、プロレタリアートのほうに向きをかえる分子には、彼等がそうする程度に応じて譲歩することが必要であり、――同時にブルジョアジーのほうに向きをかえる分子とはたたかわなければならない」「ドイツ共産党中央委員会が『独立派(ドイツ独立社会民主党=カウツキー派』とのブロックという考えを認めているのを、ドイツの左派が攻撃しているのは、われわれにはまったくふまじめな、かつ『左派』のまちがいをはっきり証明するものだと思われる」。

 これらの諸内容との連関でいえば。要するに中核派は熱田派反対同盟が自分達を排除した、それも自らの独断的セクト主義にへきえきして断罪しようとしたことの革命論的捉え返しを貫徹することができず、全くの左翼小児病的観点においてドイツの「左翼」共産主義者と同じように、自分達に反対したすべての者を日帝権力の手先とかにくくりつけてしまっている誤謬に犯されているのである。

 条件派的部分や対話派などをも内包する傾向にあるとはいえ、やはり熱田派反対同盟は日帝中曽根に対峙せんとしており、帝国主義と闘わんとする部分であってバリケードの向こう側にいってしまった等とはいえない。ましてや帝国主義の一部などとは規定できず、実際上の闘争局面においては天神峰や東峰の反対同盟よりもある意味では徹底してラディカルに、例えば九・一六東峰十字路戦や駒井野決戦、七八年開港阻止決戦を闘い抜いた部分が、熱田派反対同盟を形成しているのであり、今日におけるその分岐を捉え返し、革命的左翼の側にひきつけるべく闘う必要性はあったとしても、帝国主義国家権力と同一のものとして打倒すべき対象にはなり得ようもないことを、ともかく現在の中核派は全く捉え返すことができないのである。これは正真正銘の左翼小児病の誤りである。

 わが同盟はこうした中核派の誤てるセクト主義、スターリン主義に対しては、断固として闘い抜かねばならない。彼等の好む言葉でいえば、現在の中核派は余りにもおぞましい唯我独尊の世界におち入っており、自分達にだけしか照明をあてられず、ゆえに本来団結できる性格にあるものを自ら打ち壊し、統一ではなく破壊をもたらす役割りのみを担っているのである。
 そして政治攻防的にいえば、中核派がわが同盟に対してまで「反革命」規定を与え、その打倒を宣言する以上われわれも又革命的左翼としての矜持にかけても、この攻撃に対しては組織防衛を完全になしきり、彼等の誤りを全人民に明らかにし、それをもって彼等のスターリン主義的陥穽を是正していく任務をひきうけなければならない。もはや中核派に対する一切の幻想は捨て去られればならず、覚悟を固めて対処しきらねばならないのである。
 もちろんそれは、わが同盟独白の戦争の論理にのっとったものとして、帝国主義国家権力との攻防のうちに作り上げられねばならず、わが同盟が徹底して日帝国家権力と闘い抜き、プロレタリア革命運動の正道をさし示すことによって、彼等を逆規定していく方法によらねばならない。内ゲバ路線を批判する内ゲバ主義、党派闘争第一主義になってしまうのでは、第四インターと同じ陥穽にはまり込んでしまうからである。

 しかしともあれ、「七〇年闘争での日向派の裏切り」とか、「七〇年対カクマル戦でのうす汚れたあがき」など、全く独断的なことをよく言うものである。一体わが同盟が七〇年闘争(=七〇年安保決戦)を裏切ったなどとは何を根拠に言うのであろうか。そもそも歴史的に言えばわが同盟が成立したのは七〇年安保闘争後の第二次ブントの崩壊以降の七〇年代であって、七〇年安保闘争時に彼等が言うところの「日向派」など存在してもいなかった。なかったものが裏切ることなどできるわけがないではないか。
 またもしそれが第二次ブントをさしていうなら、それはとんでもない間違いである。六八年十・二一防衛庁闘争、六九年一月東大安田決戦、六九年四・二八破防法適用など、歴史に残る闘いを第二次ブントは闘い抜いたのであり、そんなことは当の中核派も百も承知のはずである。彼等の言っていることは全く目茶苦茶なのである
 同時に七〇年代対カクマル戦争は、六〇年代における革共同の分裂をひきつぐ、革共同の分派闘争として遂行された。それにわれわれが参加しなかったから「うす汚れたあがき」だなんて、全く主観的なだけで何の説得力もないきめつけでしかないではないか。

 わが同盟は中核派による余りにも自分勝手な「反革命」などという何の根拠もない断言を徹底弾劾する。われわれはわれわれ独自の戦争の論理によってこれをくつがえす。つまり日帝国家権力と真実闘い抜き、武装闘争を作裂させ、これを拡大させ、全人民的政治闘争の奔流をつくりあげることによって、日本階級闘争の大道を正すことに全力を傾注し、中核派がはずかしくてわれわれを「反革命」などととても言えない唯物論的現実を作り出していく。日帝国家権力に対し死をも投獄をも恐れず、闘って闘い抜く方法だけが、内ゲバ主義を逆規定できる
 それを肝に銘じて、われわれが避けて通ろうとしても降りかかってくる中核派の攻撃への防御を固め、根性を固めて前へ前へと進もうではないか。
 八五年は重大な決意を固めて戦取すべき決戦の年である。犠牲を恐れず、戦旗・共産同はさすがよく闘う、あの党派にこそ人民の未来があると人をして言わしめるような闘いを、全身全霊をかけて作りあげていかねばならない。

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