[つぶやき]中村光男さんのことと「プライベートに入らない」ということについて

中村光男さん
中村光男さん
by 中野由紀子

昨日の「外国人排斥を許さない6・13緊急行動」が無事に貫徹できたこと、本当によかったと思います。参加された皆さん、お疲れさまでした。
賛同された皆さん、ありがとうございました。実行委員の皆さんもお疲れさまでした。みんなの良心が大きな流れを作ったのですね。
おかしなことにはみんなで声を上げることが大事だということをあらためて感じました。
     
◇   ◇   ◇

話は変わります。

山谷争議団の中村光男さんは、私の尊敬する人物の中のおひとりです。山谷で長く活動されている50代の方です。私などは気まぐれのようにときどき顔を出す程度で本当に申し訳なく思います。

中村さんには越冬闘争や集会などで何度かお会いしました。無口な方のようなので、私は遠くから動きをながめてることが多いです。隅田川のテント撤去の問題のときにもご一緒しましたが、そのときに中村さんがおっしゃった言葉が今も強く心にあります。

「テントの全員に声を掛けること。ひとりでも取りこぼしたらダメなんだ。みんなで助かるんだ」というようなことを、集まったみんなに指示されました。そして、「次の日に誰々さんが川に浮かんで亡くなっていましたじゃーダメなんだ」と言いました。

グローバル・ジャスティス・運動の活動家で人類学者のデヴィッド・クレーバーが来日した時、彼もこれとまったくおなじことを言っていました。
「我々は、ひとりでも不幸なら、それは救われたことにはならない」と。

この世知辛い競争社会、自分さえ良ければいいという考え方の中で、これらの言葉はなにより大事なことであると感じました。

◆   ◆   ◆

たとえば、悩んでいる人がいます。
とにかくその人はつらい思いでどうしていいのか道が見出せずにいる。
他人に話しづらいことでただただ一人で悩んでいる。
それでも勇気をふりしぼって、知り合いに打ち明けてみた。
しかし、こういう答えが返ってきました。

「プライベートなことには係わりたくない」
「他人のプライベートには入りたくない(入るのは主義じゃない)」

一見、そうだよね、プライベートな悩み事には入っちゃいけないし、
あくまでもプライベートな問題だからねー、他人にはわからないことだし・・・
と、まったく正論な感じがします。
なんの落ち度もなく、あくまで「他人のプライベートを守ってる」という
スマートで紳士的な対応ということになりましょうか。

ここで私は先の中村さんの言葉を思い出し、ちょっと考えます。
本当にそうか?
「プライベートなことに入らない」ことがそんなにいいことか?
悩んでる人が、「プライベート」な悩みであることを承知しながら、
困り果てて勇気を出して相談したのに?

私には、たとえ彼または彼女の「プライベート」な問題であっても、それほど悩んで助けを求めてきた人に対して、
「いやー、それはプライベートなことだから。入りたくないんだよね」とは決して言えない。
そんな言葉を彼または彼女は待っていないと思うからです。
だってそれは、理由はどうであれ結果として「無視」、「無関心」とおんなじことだからです。
真剣な問いかけに返答しないのとおなじです。
自分ではそんなことはしていないと思っても、そこで切り捨てているのです。
こんなさみしいこともありません。

確かに「他人さまのプライベートなことに入る」のはなんとなく良くないことのような気がしますが、
「あなたがそんなに悩んでるのなら話を聞くよ」と言えばいいことです。
細かいことはそれこそプライベートなことだから、当事者とその悩みの対象との問題であるので、
微に入り細にわたり理解することはできないでしょう。
でも、それは承知で、また承知してもらって、話を聞けばいいことです。

問題がすぐに解決しなくとも、いい回答が出せなくとも、聞くこと・共感することができます。
悩んでる人にとっては、それだけでも大きな救いになる。
なにより結果としての「無視」、「無関心」、「切り捨て」は避けられます。

私の場合は「看護師脳」で考えるクセが付いてるのかもしれません。
もちろん本人が望まないなら、「入ってはいけないプライベート」でいいと思う。
しかし、本人の悩みの度合いや救いの求め方によっては、「入っていいプライベート」と
「入らないとならないプライベート」とがあると思っています。
人によっては一人苦しみ抜き、絶望して自殺することもあります。

「あのとき聞いてあげたらよかった、プライベートに無理にも入っていけばよかった」と後悔しても遅いからです。

『プライベートには入らない』

この一見 紳士的な、しかし、本当に事務的で表面的な考え方にはいつもうんざりします。
東京の活動家にはこういう人が比較的多い。
本当に冷たいのではなく、それがいいことみたいに思いすぎているのだと思います。
草加さんによると、関西の活動家にはこの傾向がほとんどなく、うっとおしいくらい
世話焼きをしてくれるということですが、私には親しくしている関西の活動家がいないのでわかりません。

「プライベートではない、大きなおおやけの、運動に関する相談」ならば大いにみんな応じてくれるのでしょう。
でも、人が生きる中での苦悩はもっと身近でもっと究極で生々しい日常の中にあります。
いつもいつも運動に関わる内容ばかりではありません。
活動、運動に関わっておられる方々には、こういう小さいがデリケートな問題も、
一度きちんと考えてみてほしいと願っています。
蕨市の件だけでなく、私たちの日常には、日本人同士でも小さな「無視」、「無関心」、「切り捨て」、
「差別」があふれていることにも気づいてほしいと思う。

最近はまあいろいろとへこんでいるので、大好きな浅川マキを聴いています。
私のような悩みの深い人間にとっては、生きてることはつらいもんだなぁと考えたりしています。
(柄にもないですかね、ハハ  )

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◆東京に来てすぐの頃の私の気持ちはこんなふうでした 
「少年 浅川マキ」

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