ゲリラ闘争と大衆運動

民衆を救うゲリラ・キリスト元中核派活動家のアッテンボローさん が、ご自身のブログにおいて、 「十月の挑戦」というエントリーを書いておられます。以下の文章はそのエントリーに対するコメント文の転載です。先にアッテンボローさんのエントリーを読んでからお読みください。

アッテンボローさんと旗旗は読者層が重なっているので、ここに転載しちゃうとあっちとこっちで議論が分散するかなとも思ったのですが、まあ、重なるとは言っても微妙に違いますし、旗旗の雰囲気でまた違うコメントの流れもあるかな?と思って載せてみました。

書いているうちに「マルクス・レーニン主義者」に戻って、読者のことを考えずに筆が走ってしまいました。アッテンボローさんのサイトではこういう文章がのびのびと書けるからいいなあ(笑)。最近私は自分が「左翼」かどうか自信がなくなっているのですが、この手の文だとすらすら書けてしまうところが、いやはやなんともです。

////転載ここから///////////

私は圧力釜爆弾は使用されなくて良かったと思っています。使用されていたら、いずれ死傷者が出た可能性もあります。そうでなくとも、いわゆる爆弾闘争は、大衆的支持という観点からは決してプラスにはならないと思います。
権力公安は活動家の職場や家族への恫喝に、いつも「あいつは爆弾犯の仲間」というデマをとばすのが常套手段で、私達はそれを鼻で笑っていましたが、中核派が本当に「爆弾犯」になってしまっては、シャレや冗談ですみません。
カクマル派に死者が出た時でも、街頭情宣で私達を批判する人がとても多かったです。私達としては責任のとりようもないので非常に困りました。もし爆弾闘争で死者が出たとしたら、すべての三里塚勢力がその言い訳に追われることになっていたでしょう。

10・20の闘いは本当に素晴らしかった。私達も内心ではとても喜んでいたし、中核派の権威は非常に高まった。それに参加されたアッテンボローさんにもあらためて敬意を表します。それに対する大衆的な支持を組織拡大につなげていくことは、充分に可能だったと思われます。
しかし浅草橋襲撃はどうでしょう。あれは意図がよくわからなかった。動労千葉が「私達とは無関係」と声明せざるを得ないような闘いはやるべきではなかったのでは?そしておそらく圧力釜爆弾も、使用されていたら、ほとんどすべての大衆団体が「無関係」を声明せざるを得なかったと思われます。
浅草橋襲撃のために、中核派への大衆的支持は、反権力実力闘争を闘う勢力への支持から、「なんかよくわからんが、今の世の中をかきまわしてひっくり返してくれそうな人々」への支持というような無政府主義的なもの(こういう人は実は大変に多かった)に後退してしまったと思います。それがいま一つレーニン主義的な組織建設に結びつかなかった遠因ではと思います。

組織の現状や力量から二期決戦における大衆的実力闘争がくめないという説明は、やや納得しかねるところがあります。私達のような小さな組織でも、大衆的実力闘争の単独決起を意思統一していたのですから。そしてプロ青のような規模の組織(当時すでに100名未満)にまで共に実力決起することを要請さえしていました。このエントリーでの中核派の説明は、プロ青が実力闘争をくめない説明とほぼ同じ構造で、プロ青ならともかく、中核派からこういう説明を聞くとは思ってもいませんでした。ちょっと納得いきません。

また、私達はゲリラ闘争については、「武装宣伝隊」という位置づけでした。ゆえに破壊の規模や武器の威力が問題なのではなく、いかに厳戒をかいくぐって、権力の中枢にまで攻撃を到達させるかということこそが問題でした。
それは大衆的な実力闘争を補完し、大衆運動を組織化していく一環です、大衆的な実力闘争に置き換えて、大衆をただ革命軍を行動を支持するだけの存在にしてしまうのではいけないと思います。

カクマルの存在と、彼らによる背後からの襲撃・敵対については、日本階級闘争に与えられた特殊な試練です。これを並列的にとらえて「内ゲバ主義反対」とは言いませんが、カクマルとどのように対峙するかは、それぞれの勢力にとって、非常に高度な政治判断が問われていたわけであり、そのために本来の対権力闘争がやれなくなってしまったのであれば、やはりそのことに対する主体的な総括が必要ではないかと思います。単に「カクマルさえいなければ」という発想では不充分ではないでしょうか?

私達も天皇主義右翼による血みどろの防衛戦争を経験しています。大型トラックで本部ビルに激突してくる、防衛隊がヤッパで刺される、100人以上で本部への襲撃を試みる、そしてそれを権力・機動隊が防衛するということがありました。しかしあの時に、「右翼との闘いこそが革命闘争である」という「二重対峙」的な発想に陥って、さらなる激突の深化に進んでいたら、それこそ奴らの狙い通り、対権力実力闘争が組めないという、非常におかしなことになってしまったと思うのです。

個人的にはカクマルとの「二重対峙」ではなくて、権力との「一重対峙」に集中していく中にカクマルとの闘いを位置付けていくことが問われていたと思います。70年安保や早大戦争では、それゆえにこそ、カクマルの本質をあぶりだし、彼らが大衆的に孤立・放逐されていく基礎が作り出されていったのではないでしょうか。

コメント

  1.  今晩は。草加さんも管制塔カンパの物販が一段落したようで、徐々に新しい記事を書けるようになりましたね。また楽しみが増えました。僕のブログでは確かに活動家時代の思い出話を色々と「のびのび」書いています。それは多分党や運動が嫌いになって離れたのではないために自分が生き生きと活動していた時期への郷愁の念が強いからだと思うのです。ですから今のところ時系列に沿って思い出話を書いていますが、最近のことを書くようになったら色々と重苦しいことが増えるのではないかと思います。

    • 土岐幸一
    • 2005年 12月 02日

    この話題とすれ違いになるかもしれませんが、私の中核派の印象について書いてみます。

    それは70年6月安保闘争(代々木公園)での集会の時だったと記憶しています。確か主催はベ平連などではなかったか?

    当時私達は、2次ブントの分裂過程にありその日は、叛旗、情況派との内ゲバを控えていました。それでも党派としては、他党派の情況をレポしないわけにはいかないので、忙しい合間をぬって私が中核派のレポの役割をになうことになった。

    代々木公園にかかる歩道橋の上で、多くの私服と共に会場に向かってくる中核派の隊列を学生、反戦の数を数えるのが、レポの最大の役割だったのですが、結論からいうと数え切れませんでした。

    中核派単独で集会を開いた後、メイン会場の代々木公園に結集すると聞いていたので、坂道をデモ隊列で行進してくる中核派の全学連部隊をチェックするのですが、多過ぎて数が数え切れません。多分1千人以上いたと思います。そして、全学連部隊の隊列が漸く終わったら、今度は労働者の反戦部隊の登場でした。

    その数は、全学連部隊の倍以上でしたか?

    その時私は、「このままいったらブントなんて、名前も歴史にも残らない。新左翼は全部中核派になるしかない」と感じました。
    そういう強さ、勢いを当時の中核派は、多くの学生、労働者に見せていました。

    ところが、その後革マル派との内ゲバです。
    イデオロギー的には、革マル派を反革命と規定し、革マル派打倒が権力との戦いと等値されるようになりました。

    私はその時、「ああ、これで中核派は日本の革命党となる絶好の機会を自ら捨て去ってしまった」と感じました。

    私が中核派に対する印象は、そのことが一番大きい。
    みなさんのコメントと擦れ合うとは思えませんが、オジンの70年安保闘争印象記として、聞き置いて頂ければ幸いです。

  2.  土岐さん初めまして。アッテンボローという若輩者です。草加さんの問題提起に対して内容を踏まえた書き込みをしようと思い覗いたところ中核派への印象を書き込まれていますのでご挨拶をさせていただきます。70年頃の中核派というのは本当に素晴らしい勢力を持っていたのですね。私自身は革マルによる襲撃・内戦が無ければどれほど良かったのかと思うことも度々あります。当時を知る方にとってはより一層革命が遠のいたと思えるのでしょうね。
     さて、草加さんの記事についての私なりの思いを書かせていただきます。85年の戦旗共産同が大衆的武装闘争を闘ったこと、プロ青にもその様に働きかけがあったこと等を知るにつけ、なぜ中核派が86年の段階で大衆的武装闘争を放棄してしまったのか疑問に思えてきました。実際問題、勢力の回復が順調ではなかったとは言え、100単位の部隊を編成することは可能だったと思うのです。
     土岐さんであれば67年10・8以降の情勢にもお詳しいと思うのですが、羽田闘争の後に続く王子野戦病院闘争などでは100~200の部隊で戦闘をし続けたと聞いています。波状的に権力と闘うその姿が、佐世保エンタープライズ闘争の際には多くの市民・労働者の支持に繋がったとの総括があったと思うのです。ですから、中核派は三里塚に来決戦の過程でしつこく、粘り強く波状的な戦闘を繰り広げていたら情勢の大転換があったのではないかと思えてしまいます。
     85年冬の革共同政治集会では、公然指導部のトップである北小路敏政治局員が「10・8羽田世代に続く、10・20世代が生まれてくる」と自信を持った提起を行っていました。あそこで怯むことなく少数の部隊であっても闘っていたら情勢が変えられたのか知れない。草加さんの記事を読んでその様に思ってしまいました。
     「十月の挑戦」で書いた爆弾闘争への踏切が果たして党中央でのどの様な論議が行われた結果の物なのかについては、私には全く分かりませんが、86年冬から7年の春にかけては相当強力に意志一致した記憶があります。現在の中核派は革命軍戦略も放棄したと言われていますが、その辺についても私の場合良く分からないことばかりです。
     今日の小泉翼賛政治の情勢を転換するには、やはり自らの血を流して実力決起を勝ち取る以外には方法はないと思っています。韓国の労働者たちがAPECに対して実力闘争を挑んだように、日本においても少数であっても構わない、実力決起を中核派にやって欲しいと期待してしまいます。中核派は「突っ込みの中核派」でないと似合わないと思います。

    • 土岐幸一
    • 2005年 12月 07日

    はじめまして、アッテンボローさん。色々と忙しく、中々リプライが書けなくてすみません。

    さて実力=武装闘争のことですが、私は今の社会情勢では、そうした戦いをつくりあげるのは、難しいと考えています。
    今の中核派に、いやどこの党派にでもと思いますが、それを求めても、無理があるのではないでしょうか?

    だからと言って、原理的にそうした戦いを放棄するべきだと言っているわけではありません。
    われわれがよく知っている基本的人権とか、言論、出版の自由とかいう事柄は、みな抑圧された民衆が血を流して勝ち取ったことは、アッテンボローさんも御承知のことと思います。

    そしてそうした社会変革を求める人間達のうねりは、いつかまた不可避的にやってくると私は思います。

    重要なことは、そうした時にわれわれが、多くの民衆と共に立ち上がり、恐れを知らずに戦う準備をしておくということだと、私は考えております。
    今はそうしたことを押さえておくだけでいいと、私は考えています。

    そのためにも重要なことは、今を戦いとることではないでしょうか。
    草加さんのように、権力のいわれのない民衆抑圧(関生ナマとか鹿砦社などへの)に抗議の声をあげたり、戦争屋ブッシュの来日に、「ノー」を突きつけたりすることだと私は思います。

    そうした人間の小さな戦いの積み重ねが、やがて大きなウネリとなってこの市民社会を包み込んで行くと、私は信じています。
    そして人間の未来を切り拓いて行くと、考えています。

  1. 2005年 11月 30日
  2. 2005年 12月 10日
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