(前回のエントリからの続きです)
結局は日本において、非暴力直接行動は根付かなかったと結論つけるしかないです。反原発運動を契機として、同じ名前でイメージだけ拝借して、実は全く別の何かが出現している。それが良いものか悪いものかは知りませんがね。思うに、ガンジー的な非暴力直接行動は、キリスト教的な文化的バックボーンを持つ欧州では、ナチス体験もからんで(法の支配概念)受け入れや発展がしやすかったのかもしれませんね。今後どうなるかはわかりませんが。
歴史的経緯から見た、間接民主主義の機能不全
これを歴史的な経緯から言えば、もともと現代の議会制民主主義は原理的に「間接行動(間接民主主義)」なのは小学生でも知っていますよね。それは市民革命の時代に、一般国民(「愚民ども」)が政治に口を出してコントロールすることを恐れた支配階級が、制度的にわざとそうしたのです。よく、具体的個人である国民は選挙日の一日だけ「主権者」であるとか、自分を搾取して支配するのが誰かを選べるだけなどという言葉で語られる議会制度の負の側面は、この制度設計によります。
多くの人が勘違いしていますが、主権者としての「国民(nation)」という語は、近代立憲主義にいたる歴史上、第一義的には具体的な生きた個々の人間のことではなく、また有権者団のことでもなく、なんとなくふわりとした抽象概念として想定されています。具体的な個々の人間を主権者として想定する立場は、国民ではなく「人民(people)」を使います。ゆえにたとえば国民投票や住民投票の結果が、首長や議会の決定を縛るような直接民主制度の導入は違憲とされています。なので各地の住民投票条例では、その結果を「尊重する」という表現で、違憲を免れているわけです。このあたりは大きな顔して書くのが恥ずかしいほど、憲法の教科書の最初のほうに書かれている初歩的概念です。
ところがこれだと時々困ったことがおこります。いわば抽象的に「国民を代表している」政府(または自治体)と、現実の国民(=人民)の意思が著しく乖離する場面などです。単に時期的に乖離している場合は、それこそ署名運動やデモなどの間接行動で運動し(「民主制の過程」などと言います)次の選挙でその乖離を埋めるという建前になっています。だいたい議会に議席を持つ大きな政党は、この間接行動の流れを想定しており、「世論」に訴えた上で、次回選挙で自派の議席の上積みを目指すのが通例であり、市民運動などに対してもその範囲内(自派の議席獲得運動)にとどまってくれることを望みます。共産党も基本的にその例外ではない(というか典型例)でしょう。
ちなみに書いておくと、この「民主制の過程」に瑕疵(かし=傷)があると、議会制民主主義が制度設計通りにうまく機能しません。ゆえに街頭での運動を含め、表現の自由などの精神的自由は、その他の人権よりも厳しく守られなくてはならず、たとえば経済的な自由などへの規制なら合憲とされる(それは「民主制の過程」で是正できる)ようなことでも、精神的な自由では違憲と判断されるべき(「民主制の過程」そのものが破壊されるから)とされています(通説判例)。これをダブルスタンダードの原則と言います。
別の言い方をすれば、少数派が多数派になりうる道が完全に保障されていない限りは、いくら多数派でもその支配は正当化されない(=多数派独裁)ということです。これには民主制の過程だけでなく、最終的な多数決にいたるまでの「手続きの適正」も含まれます。民主主義というのは単純多数決とは全く違うものなのです。
さて、ここまでは昔から言われている間接民主主義の欠点の再確認ですが、近年特に顕著になってきた、それ以外の困ったことがあります。一つは事態が切迫して次の選挙までまっていられない場合、二つには全体としては支持を得ている政党が、特定の政策では人民に敵対している場合、たとえば今の原発政策や秘密保護法、集団的自衛権などですね。三つには特定の地域や階層など、全体の中では少数に属する人々に、もはや「意見の違い」ではすまないような差別的な抑圧が加えられる場合で、ちょうど今の沖縄や三里塚、それに貧困問題などもそうですね。
このような場合、以前の自民党なら、ある程度は抑止が働いて、秘密保護法の前身であるスパイ防止法などのように、その制定を自発的に見送るなどのバランスが働いたのですが、現在の極めてイデオロギー的な安倍政権では、そのような常識的な見識など期待できません。まだ一般に危機感が広まっていないのが呑気すぎると思いますが、そういう意味で、現在大変な議会制民主主義(間接民主制)の機能不全が進行しており、安倍政権下の公安警察の跋扈、治安弾圧の強化(民主制の過程の破壊)とも並んで、制度的に考えうる最悪の事態が発生しており、それは「民主主義の危機」だと言えるのです。
非暴力直接行動は、間接民主主義を補完する直接民主主義
こうして間接民主主義の欠点が露呈した場合、それを補うべく一部に直接民主主義を導入し、欠点を補正するということが、近代以降おこなわれてきました。「本来は直接民主制が理想だが、それは様々な理由で無理だから『代替物』として間接民主制があるのだ」という考えも広まってきた。地方自治体などで、市民の要求から行政と住民との乖離を埋めるための住民投票条例が制定され、重要な問題はそこで決着をつけるべきといういう例があらわれてきたのも、こういう流れの中にあると思う。
私は非暴力直接行動というのもまた、現象的には「違法」であっても、本質的にはこの間接民主主義の機能不全を補正するための正当行為(違法性の阻却)であると考えています。別の言い方をするならば、非暴力直接行動や抵抗権というものは「革命運動」とは根本的に異なるものであって、むしろ現代社会の立憲主義憲法の精神を具現化するもの(憲法保障)なのです。そういう意味からも、革命派が非暴力直接行動を名乗ることはありません。
「憲法保障」とは憲法(=国家)の存在理由である人権保証が絵に描いた餅にならないように、人権が侵害された場合、それを是正して憲法秩序を回復する保険のようなものと考えればよいでしょう。平時は裁判所の違憲審査がそれに該当しますが、非常時や緊急時には国民の側からする「抵抗権」と、統治の側からする「国家緊急権」があげられます。ただどちらも「立憲主義憲法(=人権)を守るために」のみ認められる場合があるという点に注意が必要です。
余談ですが、国家緊急権は、まずもって立憲主義憲法が存在しており、あくまでも人権を守ろうとして、やむなく、最小限度で、行使することが大前提です。そうでない場合はただの圧政にすぎません。つまり政府の恣意的判断で「お国の一大事」だからと行使できるものではなく、逆に抵抗権を行使する人民を「テロリスト」呼ばわりして弾圧する危険もあります。というか、圧政に抵抗された国家は必ずそう言います。こういう現状を鑑み、まだ通説ではありませんが、近年、もはや国家緊急権という概念を認めるべきではないという見解も有力です。
立憲主義憲法がない場合はどうなるんだという点ですが、別に国家が保障しようがしまいが、すべての人に人権は認められます。それは戦前の憲法のように「万世一系の天皇が統治する」として、国が天皇主権を定めていようが、元来そんなものは不当です。有名なフランス人権宣言16条は「権利保障が確保されず、権力分立が定められていない社会は、全て憲法を持つものではない」と、この近代社会の大原則を表現しています。
次に、直接行動が民主主義だと言っても、それは現象的には限られた人々によって行われるものです。だとすれば自分の行いが民主主義の補完であり、民意の反映と言えるかどうか、それは何度も何度も検証し、議論し、実際に採用する手段が人道に反しないものであるかも含め、徹底的に考え、議論し続けるべきであると思います。そのためには「直接行動」を標榜する運動ほど、その内外の人にも開かれ、オープンで風通しの良い議論ができることが求められます。
そして歪められ、民意と乖離した現状が正されたならば、当面は直接行動の幕をおろして再び間接行動に戻るという判断を下す必要もあると思います。「革命運動」でない以上はそこはそうなる。「いや、俺は革命運動をやるのだ」というのなら、別に私が止める話ではないが、とりあえず直接行動とは関係ない話になります。
良心(人権)の問題は多数決では決められない
あともう一つの問題、それは「良心の問題に関しては、多数決の法則は適用されない(マハトマ・ガンジー)」ということです。たとえば多数の世論が少数の人々を不当に迫害することを容認している場合など、ある非暴力直接行動が必ずしも「民意の表現」とは言えないこともあるわけです。
これも一応は現在の立憲主義の元では、憲法で人権を徹底的に保障した上で、民主制の過程から独立した「非民主的機関」である裁判所が、少数派の人権を多数派の迫害から守るという建前になっています。しかしこれは現在的に機能しておらず、そりゃもう国がよっぽどの滅茶苦茶な所業(普通のデモ隊を気分次第で撃ち殺すとか、故意に手抜き工事をしてダムが決壊したとか)でもしない限り、現在も日常的に繰り返されているような人権侵害で裁判所による救済は期待できません。国家権力や裁判所にしてみれば「些細な事」でも、一般市民や個人の人生を破壊するには充分なのにです。
私はこのような事例でも当然に人民の抵抗権は発動できると考えます。その場合、「多数(潜在)世論の体現としての直接行動」以上に、人道的で自己犠牲的であるかどうかを徹底的に検証した上で、身を捨ててでもやるという行為なら、むしろある意味私は人として最も崇高な行為でさえあると思う。それが民衆の目をさますということもあるでしょう。真に人道的で人間の素晴らしさを示す行為であったのなら、きっとそこには理解者も集まると思う。
そのような人道的なものであるかどうか、どうやって判断できるかって?実際にやってみれば一目瞭然ですよ。先に書いた「ただの市民が戦車を止める会」もそうですが、それは人の心を揺さぶるものが確かに備わっており、真実を真実と認める者から見れば、たとえ意見が違ったとしても、植民地宗主国だった英国内でガンジーを支持した人がいたように、誰もが思わず敬意の念を抱かずにはおられないものだからです。逆にそうでない独りよがりなものであったなら、一笑にふされるか、指弾さえあびて、最初から運動は大きくならない。
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経済主義者とテロリストは同じコインの裏表である
さて、様々な運動の志向やその形態があるわけですが、それへの評論の仕方としていろんな切り口があります(たとえば右翼か左翼かでわけるなど)。ですがここでの議論に即して言えば、それは「非暴力運動か実力闘争か」「直接行動か間接行動か」ということになり、その組み合わせで2×2=4種類を想定することができます。
ここでは「非暴力+直接行動」について考えてきたわけですが、日本において合法的にできるのは「非暴力+間接行動」だけです。国家とはそういうふうにできているのです。
それはともあれ、この流れでいけば、まずは普通の「間接行動」からはじめるのが筋であると思う。キューバ革命のカストロも、最初は裁判闘争という合法的な手段から試してみたことは知られているところですし、沖縄の人々が「合法的にやれることはすべてやった」と言われ、かつ選挙などそのすべてに勝利した上で、その圧倒的な民意を土台にして、ゲート前での抗議闘争という「非暴力直接行動」に半歩踏み出しているのだし、それだけに安倍もうかつに手が出せない状況を作り出せているわけじゃないですか。これがいきなり独りよがりの「違法行為」では誰も支持できません。
そういう意味で官邸前行動などは、むしろ直接行動にはいたらない段階での、反原発の民意を可視化する地道な積み重ねとして、大変に重要な役割を果たしています。誤解されると困るのですが、その点を批判したつもりは毛頭ありませんし、それはむしろ間接行動だからこそ意義があったのだろうと思います。安倍政権と沖縄との関係のように、政府があまりにも頑なで民意を無視し続け、間接行動が行き詰まった場合にどうするかは大変に難しい判断が迫られるところですが、またそれは別の問題ではあります。
実力的直接行動
これでいくと次に「実力的+直接行動」という日本ではほとんど聞かない言葉が出てきちゃいますが、要するに新左翼が闘ってきた「大衆的実力闘争」がこれに近いでしょうね。闘っている主体としては「革命運動」だと思ってやっているので、そういう意味ではここでの議論とは本質的には関係ないものなんですが、現象的には直接行動との境界が曖昧な部分もあり、たとえば座り込みや占拠(オキュパイ)を行って機動隊が来た時に、それに実力で抵抗するか非暴力で抵抗するかの違いは、国家の圧倒的な物量の前には程度の差くらいの意味しかないこともあったでしょう。
思うに日本の新左翼運動というのは、その半世紀以上の歴史の中において、その最盛期には多くがこの直接行動の要素を備えていたと思うのですね。もちろんそれは「革命運動」であるから直接行動とは全然違う。おまけに非暴力でもないんだけど、多くの場合、圧倒的な物量の国家権力に、ほぼ徒手空拳で向かっていったようなものだった。ガンジーや非暴力直接行動とはまた違うんだけれども、新左翼が多くの若者の心を鷲掴みにし、かつ、やがて失望を買ってそれを失っていった過程というのは、案外そう考えるとわかりやすいのではないかと思います。
レーニンとガンジーは同じことを言っている?
最後に「実力的+間接行動」ということになりまして、「え?そんなもの考えられるのか?」という声も聞こえてきそうですが、ここに一般の市民生活そのものを標的として国家や社会を脅迫するという意味でのテロリズムを置きたいです。
レーニンはテロリズムを否定し、運動を個別課題の要求貫徹の枠内に限定し制限しようとする人々(経済主義者)と、過激な爆弾闘争を主張する人々(テロリスト)は、真逆ではなく、実は「同じコインの裏表にすぎない」と喝破しました。
こういうことを言うと大変に誤解を招きそうで心配なのですが、このレーニンの指摘の意味を考察すれば、実はガンジーとも通底する、現在の私たちにとっても含蓄に富んだ奥深いものがあると私は感じているのです。
ガンジーは、非暴力を臆病者と卑怯者の言い訳にしてはならないと喝破し「臆病者は決して道徳的にはなれない」と、命をかけてでも道徳的な行動を求めました。さらに「臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、わたしはむしろ暴力をすすめるだろう」とさえ言っています。
これらの言葉は、非暴力主義者としてのガンジーに疑問を抱かせるものとして受け取られることもあるそうですが、私は単にガンジーが非人間的な「非暴力原理主義」ではないというだけのことであり、人としてごく当たり前のことを言っているにすぎないと思います。
こうして並べてみると、正反対と思われがちなレーニンとガンジーですが、ある意味で二人は同じことを言っていると思えてなりません。「経済主義者」を「臆病者」、「暴力」を「革命」に置き換えてみれば、非暴力直接行動と革命運動の相違点も見えてくるのではないでしょうか。経済主義者と臆病者の立場からみれば、レーニンとガンジーは「同じコインの裏表」なのかもしれませんね。
結局どんな運動がいいのか?
何にしても、こういう議論は「手段(戦術)」問題であるということだと思います。それは目的から逆算されて選択される多様性の中にあるわけで、結局はいかに権力に打撃を与えうるか、つまり戦争やその準備の阻止や、原発の廃止などの「目的」から考え、効果対費用(世論、弾圧、味方の力量等々)を考察しながら最適の方法をその時々で選択していくということに尽きると思います。
そこでは「シングルイシュー」がどうとかいう議論やら、この戦術以外は認めないとか、そういう戦術原理主義的なところで運動のアイデンティティー(他者との区別=党派性)を主張するような傾向はむしろ有害だと思う。沖縄や香港の目もくらむような運動の多様性を見習うべきかと。
ただここで一つだけ絶対に言えるのは、目的は手段を正当化しないということです。何かの運動・個人・組織、あるいは国の政策についてもそうですが、非人道的な手段はどこまでいっても非人道的であるし、どんなに耳障りのいい崇高な目的を掲げていても、そういう人たちが作る社会や国は、やはり非人道的な社会や国になると思う。
たとえ身体的な暴力をふるわなくても、人権を守るとか差別をなくすとか言いながら、自分以外の他者の尊厳を傷つけるような表現を平気で口や文章にしたり、他人を見下すような表現を好んで使うような人は、やはり人としてお互いの尊厳を大切にしない社会しか作り出せないと思う。
これは絶対にそうだと私は思っているし、そんな人や団体についていくのは人生の無駄使いにしかならないでしょう。というか今まで耳障りのいい「目的」に魅了されて、どれだけ多くの若者が人生を無駄にし、いつの間にか自覚なく「正義」を行っているつもりで他者を踏みつけにしてきたか。この国の大衆運動には「歴史」というものがなく、ほんの10年か20年そこら(場合によってはほんの数年)のことしか教訓化されていかないことが残念ですね。
さて、拙文の最後に、かつて私が左翼運動の一員であった時代に、荒 岱介という人がしきりに引用してよく聞かされた言葉を記して終わりにしたいと思います。
これまでの政治の意志もまた最も単純で簡潔な悪しき箴言で示すことができるのであって、その内容は、これまで数千年の間つねに同じであった。
埴谷雄高「幻視のなかの政治」
やつは敵である。敵を殺せ。
地獄への道は善意で敷き詰められている
レーニン「何をなすべきか」
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参考
もし、臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、わたしはむしろ暴力をすすめるだろう。インドがいくじなしで、はずかしめに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、わたしはインドが武器をとってでも自分の名誉を守ることを望んでいる。しかし、わたしは非暴力は暴力よりもすぐれており、許しは罰よりも、さらに雄雄しい勇気と力がいることを知っている。しかし、許しはすべてにまさるとはいえ、罰をさしひかえ、許しを与えることは、罰する力がある人だけに許されたことではないだろうか。
マハトマ・ガンジー
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”
非暴力直接行動とは?
もう、これしかない
今、怠りの罪を犯したら
北半球が、生物の住めない場所になる
直接行動で戦争の惨禍を止めるしかない
そのためには、宇宙の真理の側につく
人間存在を見抜き、地球を味方につける
http://t.co/f3hTz9KpCg