鈴木幸司さん御逝去の報に接し、あらためて三里塚に思いをはせる

鈴木幸司さんの告別式。弔辞を読む北原事務局長※写真は鈴木幸司さんの告別式(反対同盟ブログより)

◆鈴木幸司さんのご冥福をお祈りいたします

 三里塚農民の鈴木幸司さんがお亡くなりになられ、告別式も滞りなくしめやかにおこなわれたようです。心よりご冥福をお祈りいたします。そして同時に鈴木幸司さんが病を得られてからの、鈴木加代子さんをはじめとするご家族の壮絶な介護と献身的なご苦労には心からの敬意を表さずにはいられません。この加代子さんらの献身があったからこそ、故人は安らかに旅立たれることができた。私の立場からはこのようなことを書くことすら、僭越のそしりを免れないとは重々承知いたしておりますが、それを知りつつもなお、今は幸いにも健在とは言え、同じく老親を持つものとして、本当に身につまされるし、尊敬すべきお手本だと思います。加代子さん、今まで本当にごくろうさまでした。

 鈴木幸司さんご本人の人となりについては、関実・三里塚のブログに詳しいです(→「鈴木幸司さん、安らかに」)。三里塚闘争のいわば第一世代の方。戦前には徴兵されて、日本軍が支配する中国東北部(満州)に送られ、そこで敗戦。ソ連軍によるシベリア抑留を受け、零下30度の厳寒における強制労働のために、指も失いかけたそうです。ようやく九死に一生を得て帰国し、苦労を重ねて農民としての土台を築いたところに、今度は問答無用の空港建設です。まさに「国策」に翻弄され続けた人生でもあったと言えます。

 私は親しく接していただいていたわけではないので、勝手な思い入れを詳しく書くのもはばかられ、さらっと数行で書いてしまいましたが、従軍・戦争体験から闘争40年の歴史にいたるまで、本当は筆舌に尽くしがたい、凄絶な経験であったと思います。もし私なら、運に味方されて戦争で生き残ったとしても、まずシベリア抑留の中で精神的に希望を失い、一番に凍死していたのではないかと思います。帰れたとしても、農業を軌道に乗せられるまでの苦節に満ちた日々の労働を、黙々と耐えられたとは思えません。闘争の中でも、親族すべてに手を回して圧力をかけてくる、札束で頬を叩きながら機動隊の暴力で痛めつける、そんな政府の農民に対する無礼な対応に、最後まで意志を貫いて頑張れただろうかと思います。

 こうした鈴木幸司さんの人生に思いをはせる時、麻生内閣の中山成彬国交相の「成田闘争は戦後教育が悪かった」だの「ゴネ得だ」などという発言が、いかに頓珍漢で無知蒙昧なものかがわかるでしょう。暴力に身をさらして抵抗し、闘争を続けることでいったいどんな「得」があったというのでしょう。損得勘定で動く人は、闘争がはじまる前にさっさと条件派になったのです。もちろんあらゆる運動や闘争に、世界中の100%の人が賛成することはありえないという点を考慮にいれたとしても、もはや「一つの意見」とさえ言えない単なる暴言にすぎません。だいたいその多くが徴兵され、中国大陸や「南方戦線」に派兵され、戦後は夜明けから日没までどころか、夜も月明かりを頼りに荒地を開墾し続けた三里塚の開拓農民たちが、どうやって「戦後教育」を受けたのか、中山氏にはぜひとも聞いてみたいものです。

 少し話がそれてしまいました。こうした鈴木幸司さんを支え続けた鉄の意志の背後には、天皇制政府の帝国主義政策が国を誤らせ、自身も戦争からシベリア抑留などの塗炭の苦しみを受けてきた、その人生体験に裏打ちされた怒りからくる、「二度と同じようなことを許してはならないのだ」という強い思い、義憤、公憤としての怒りが、「国策」に立ち向かわせたのだということです。私のようにすぐに私利私欲に流れてしまいがちなヘタレもいる一方で、鈴木幸司さんのように、それらを超越し、損得勘定をまったく抜きにして闘える人もいる。どちらも等しく偽らざる「人間の真実の姿」なのだとしたら、私たちにはそのどちらの生き方を目指すのか、その「選択」だけが横たわっています。正直、私は18歳のころ、はじめて屈強な機動隊に囲まれた時には、恐怖心を感じてビビってしまったもんですが、きっと鈴木幸司さんには、泥水すすって生き延びたこともない機動隊員なんぞ、何にも知らない青二才の若造集団に見えたことでしょう。

[Sponsor Ads]


◆受け継がれていく闘いの歴史

 それにしても、私がまだ現役の左翼だった80年代には、鈴木幸司さんら三里塚闘争の第一世代が運動の中心でした。当時は鈴木幸司さんのお名前も耳に親しくお聞きしていました。その後、左翼運動を離れてから申し訳ないことに三里塚からも遠ざかりまして、このブログでも時々お名前を出させていただく鈴木加代子さんについても、当初は「え?誰?」という状態でした。鈴木幸司さんのご子息の鈴木謙太郎さんの「嫁」だと聞かされて、やっと「ああそうか」と思ったような次第です。現在、農地取り上げ攻撃の最先端にさらされておられる市東孝雄さんについてもお名前を存じ上げず、「市東東一さんの息子」だと聞かされて、やっとわかりました。その市東東一さんもお亡くなりになられたと聞いて、感慨無量な思いがしました。

 本来ならここでいろいろ「故人の思い出」などを書くところなんでしょうが、私はついに鈴木幸司さんと親しくお話する機会がありませんでした。援農にもたくさん入りましたが、私のいた党派の団結小屋は横堀部落にありまして、援農も主に横堀、木の根、辺田などの各部落が中心でした。鈴木さんの中郷部落や、市東さんの天神峰まで行くことは数が少なく、私自身は行ったことがありませんでした。農家にはそれぞれ屋号がありまして、その屋号をとって「一家の主」を「○○のおっとう」と呼び、その奥様を「おっかあ」と呼んでいました(まあ都会の私たちは屋号よりも苗字で呼ぶことが多かったですが)。親戚兄弟などで同姓の家が多かったということもあるんだと思います。今は農家も少なくなったので、屋号はあまり使われていないようです。私も急に思い出せる屋号と言えば、田中(タナカ)、殿下(トノジタ)、水車(ミズグルマ)くらいですが。

 今、集会に行きますと、壇上におられる「おっとう」や「おっかあ」は、私がいたころの闘争第一世代の方々ではなく、みんなその「息子夫婦」の方々です。今や闘争は第二世代へと受け継がれています。さらに第三世代であるそのお子様方が、ちょうど私が三里塚に初めて来たのと同じくらいの年頃になっておられる。今でこそネットを通じて多くの方々が情報発信しておられ、それを介して私もやっと三里塚に顔を出せるようになりました。ですがそれまで、長年、三里塚につながる方法も情報もなかった私には、新しい世代の方々を見ていると、なんだか軽く浦島太郎状態で、ちょっぴり不思議な感覚におそわれるし、感慨無量でもあり、そして嬉しく思います。

◆三里塚闘争の本質

 そんな私は、自分に鈴木幸司さんに対して「安らかに眠ってください」と言う資格があるのかと自問自答せずにはいられません。もちろん、一人の人間として心からご冥福をお祈りいたします。そしてその苦難と波乱に満ちた人生に、前向きに正義感をもって生き貫いてこられたことに、心からの敬意をもって頭を垂れるものです。ですが鈴木さんに対して「安らかに眠ってください」と言うのならば、「遺志は引継ぎますから」と言わないと(言えないと)いけないような気がするのです。今の私にそんな資格があるのだろうか。多くの人が引き継いでいかれるであろう、鈴木さんが残した襷(たすき)は、私の肩にはあまりにも重いものを問いかけているように思えてなりません。

 三里塚の歴史がちゃんと伝わっていないために、よくこれを一般的な「公共工事とそれに反対する地元住民」くらいの認識でいる方がおられます。普通に考えて、そんなことでこれだけ多くの人が三里塚闘争に命さえ賭けて飛び込んだでしょうか?主義主張だけでこれはできることではありません。機動隊に虐殺された故東山薫さんは、党派の人間でさえありませんでした。よしんばそういうごくごく表面的な「マスコミ目線」で考えたとしても、最低限そこにおける政府の「手法」は徹底的に間違っていたと言わざるを得ないし、そのことは政府も認めて(本音はともかく)公式には謝罪しています。この表面的なところを見ただけでも、三里塚闘争には戦後民主主義のあり方を問い直す大きな意味と問題が含まれている。とりあえずここまでは、左翼も右翼も、それどころか空港建設への賛否すら関係なく、事実を事実として認めることができるすべての人には、了解することができるはずです。

 これに加えて鈴木幸司さんの遺志を引き継ぐとは、そういう表面的な「過去の手法の過ち」というレベルにとどまらない、未来の私たちの選択、子供や孫の世代にどんな世の中を残していくのかという、三里塚闘争の内部でも常に様々な立場と意見から論争されていたテーマに踏み込み、それを引き継いでいくことなのではないでしょうか。そしてそれは自分の人生を選択するということにつながっていく。むしろそれこそが三里塚闘争の本質であり、多くの若者が、自分の人生や未来や身体や命さえもを賭け、喜んで闘争に自分をなげこんでいった運動の魅力もそこにあるのです。党派の人間であっても、組織をやめて、当時の自分やその思想を否定的に語る人でさえ、「三里塚だけは別」「(逮捕も怪我も)後悔していない」という人がすごく多いんです。これは何なのか是非ご自分なりに考えていただきたい。

◆自己に恥じない人生のお手本として

 もし、三里塚空港がその建設の過程も含めて本当に「公共」に資するものであったのなら、鈴木幸司さんのような人はむしろ喜んでこれに協力し、自分が苦労を重ねて育んできた農地を真っ先にさしだし、他の農民の説得にさえあたったのだと思います。そうじゃなかったから空港建設に反対した。別の言い方をすれば反対の中にこそ「公共」を見たのです。そしてその思いは個人の損得をさえ凌駕していった。私はほんのちょっとでも、こういう農民と共に闘えたこと、それを私の人生の誇りとして今も生きています。

 そう考えるとき、鈴木幸司さんが戦前戦後を通じて「国策」に翻弄され続け、もう黙ってはいない、二度とこんなことを許してはいけないと人生を賭けて決断した、その思いを胸にとどめて生きていくとしか今は言えません。私が鈴木さんの「遺志を引き継いで」生きたかどうかは、私の棺桶の蓋がしまる時にはじめてわかることだと思っています。どうか私の胸の中で見守っていてほしい。願わくば最期の時をむかえたとき、自分自身に恥じない人生でありたいと今は思います。

(追記)———————————————–

 告別式には是非参列させていただきたかったのですが、喪服を実家に置いてきてしまったことと、今、マジでお金がなく、駅からのタクシー代などを考えると、6・27の三里塚現地集会への結集に支障が出てしまうかもしれない状況でして、6・27集会への結集を優先させていただくことにしました。きっと鈴木幸司さんもそちらを望まれると考えました。どうかお許しください。

 喪に服する暇もなく、さっそくに農民への攻撃は陰湿に、かつ熾烈をきわめて現地は緊迫の度合いが高まっています(→「怒!成田市がついに市道を売却」)。鈴木幸司さんの人生をどう受け止め、そして私に何ができるのか。今それが問われ続けています。三里塚に思いを寄せる皆さんも、どうか自分のいる場所で出来ることを続けましょう。

 mixi上の「三里塚勝手連」は現在約40名ほどで、全国集会のたびにmixi外からも含めて5~10名ほどが入れ替り立ち替りで参加しているような状況です。コミュ自体はさほど活発ではありませんが、個人での参加を考えておられる方、mixiにアクセスできる方はご登録をお願いします。同コミュは北原派、熱田派などの経歴は問いません。「三里塚闘争」を支援したい方なら誰でも歓迎というスタンスです。mixiアカウントのない方はご一報いただければ招待いたします。また、「市東さんの農地取り明けに上げに反対する会」にも登録しておきましょう(→「入会案内」)。個人の立場で現在の三里塚を支援する上で、ここへの登録は基本です。私も入会していますが、同会は完全無党派なので、どっかからオルグがくることはありません(笑)。

最後まで読んでいただいてありがとうございます 最後まで読んでいただいてありがとうございます 人気ブログランキング にほんブログ村

<反対同盟 北原事務局長の弔辞>

       弔 辞

鈴木幸司さん 闘いを人生として生涯をまっとうされた鈴木幸司さん。
闘えば必ず勝つ、があなたの強い信条でした。その不屈・非妥協の闘いが今なお成田空港建設の完成を阻止し続けています。

 闘いを喜びとし、生きがいとしたあなたの強い意思の根底には、あの第2次世界大戦で「天皇のために死ぬ」ことを強制された戦争体験がありました。敗戦後、あなたは2年間に及ぶシベリア抑留生活を余儀なくされ、生死の間をさまよいながらも何とかして生きて帰ってこられたのでした。そして、「国民を戦争に動員した天皇制は絶対に許せない」と激しい憤りをもって、二度と世界大戦を繰り返させないために、反戦反基地の闘いの先頭に立ち生涯をかけて闘ってこられました。ベトナム侵略戦争が激化する中で始まった成田空港建設に対して、誰よりも早く「軍事空港建設反対」を叫び、反戦の砦・三里塚、の闘いに身を投じてこられました。戸村精神に誇りと確信をもってまっしぐらに闘ってこられた姿は鮮明に残っています。

 農民殺しの農地強奪を強行する政府・国家権力に一歩も引かず、2度にわたる不当逮捕をものともせずに、徹底的に闘いぬいてこられました。あなたの凄まじいばかりの闘魂は、たびたび国家権力・機動隊を圧倒しました。とりわけ、反対闘争切り崩しのためにかけられた成田用水攻撃に対しては敢然と立ち向い、廃村化に対しても2期にわたる町議会議員としての闘いで決意を実践されました。本当にあなたのすばらしい空港絶対反対の信念と闘魂には頭の下がる思いです。世の中を変えるためには、あなたのような闘いが絶対に必要です。あなたの強い意思は、家族および反対同盟に引き継がれています。必ず勝利を勝ち取るでしょう。
 
 四十数年、共に闘いぬいた鈴木さん! かえすがえすも残念な思いでいっぱいです。元気な頃には、よく魚釣りに一緒に行ったものでした。また、あなたはボウリングをよくやられ、夫婦連れ立って行かれたと聞いています。皆からも鈴木さんは元気ですね、と驚かれるほど何事にも積極的にやりぬいてきました。全国の集会にも飛び回ってくれました。反対同盟の団結野球大会でも元気に走り回っていた姿が昨日のことのように思い出されます。闘争を生きがいとして全力で闘ってこられた鈴木幸司さん、なによりもあなたの鮮烈な闘う姿は、反対同盟の誇りであり全国の多くの人民の心に焼きついています。あなたの遺志は全国の労農学人民にがっちりと受け継がれ、勝利を導くことは間違いありません。私達はこれからも全力で闘います。どうかゆっくりと休んでください。ご冥福をお祈りします。

2010年6月14日
                      
三里塚芝山連合空港反対同盟  
事務局長・北原鉱治


<参考リンク>

鈴木幸司さんの逝去を悼む(反対同盟ブログ)
「闘えば必ず勝つ」の遺志を引き継いで(反対同盟ブログ)
鈴木幸司さんご逝去(関実・三里塚)
鈴木幸司さん、安らかに(関実・三里塚)
訃報にかえて(農家便り)
鈴木幸司さんの逝去と、たたかいの継承(たたかうあるみさんのブログ)
三里塚の鈴木幸司さん(86歳)ご逝去(銀座のマチ弁)
「小説・三里塚」

ここまで読んでいただいてありがとうございます!

1件のコメント

日教組は解体!中山成彬国交相の辞任はおかしいぞ!
成田空港反対派住民「ゴネ得」批判も「日教組(日本教職員組合)を何とか解体しなきゃいかん」発言も正論だ!
日本の教育の『がん』日教組の実態

中山国交相が辞任の意向
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080927-00000557-san-pol
9月27日21時44分配信 産経新聞

成田空港反対派住民を「ゴネ得」と批判するなど、一連の発言が野党などの反発を招いていた中山成彬国土交通相は27日夜、辞任の意向を固めた…

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です