「小説三里塚」第三章 闘争(後半)

戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる

第24話 初の総決起集会

三里塚空港反対同盟結成集会 午後から降りだした雨は、止みそうもなかった。西風を帯びた雨雲が空一帯を掩う頃は、すでに風雨となって、大粒の雨が講堂の窓ガラスをしきりに叩き統けていた。

 一九六六年六月二八日、今日は初の総決起集会の日である。すでに空港敷地に予定された開拓農民は、動揺し騒然としていた。二六年の開拓生活を憶えば、当然のことだった。ついに自分の屋敷に飛火し、それも屋根に火がつけば、誰だって黙ってはいられなかった。今まで安閑としていた者までが真剣になり、自ずと協カ体制を作り外敵に立向かうという気構えを見せた。それが今日の総決起集会となったのである。

 会場は成田市大清水の遠山中学校講堂で、午後一時の開会だった。雨は、小止みなく降り続いていた。空模様はいっそう険悪な様相を呈していった。「空港絶対反対」の鉢巻をした武治は、講堂の正面玄関の階段に立って空を見上げては、雲行を眺めていた――が、何か呟くと急ぎ足で、講堂の中に入っていった。

 入口には「新空港閣議決定粉砕総決起大会」と、大書された立看板が風雨に叩かれて、バタバタと鳴っていた。筆太に黒々と書かれた墨字が、横なぐりの風雨に流れて飛び散っていた。
 立看板はタベ、夜遅くまでかかって木の根で武治が書いたもので、彼は今朝早く担いでここまで運んんできたものだった。

 この講堂は東京学習院にあったものを、ここに移築したものである。三里塚には明治の昔から天皇の御料牧場があった関係で、宮内省が遠山中学校に講堂として寄贈したものである。講堂は明治三二年アメリカ人の設計によるもので、木曾の御料林の檜材を使ってあった。スタイルは鹿鳴館時代を想わせるような回廊に囲まれた洋風の建物である。正面階段を数段上って回廊を渡り、中に入ると、講堂内部が見える。真正面には一段と高く威厳を保った講壇があった。講壇には彫刻のあるいかめしく黒光りする演台が、どっかりと据えられていた。その後、遠山中学校が防音校舎に新築されるので、講堂は成田市外の栄町龍角寺というところへ移築されていった。

 講壇右側の高い壁面に梯子をかけて、一人の男がスローガンの垂れ幕を下げていた。その下では武治が這うような格好で、太筆を握って一心にスローガンを書き続けていた。
 やがて、講壇を狭んで左右一二本のスローガンが、武治の筆で見事に書き上げられて垂れ下った。武治は少し離れたところから、それを眺めていた。講壇の時計は、一時になろうとしていた。

 風雨は相変わらず音をたてて、窓ガラスを打っていた。
「今日の集会はお流れかな……」
 腕組みしてスローガンを眺めていた武治が、曇った窓を見てポツリといった。
「うん、この雨ではな……」
 大工の高橋も憂いげに、窓から空を見上げて、合槌を打った。それでも古込の神崎、石井、木の根の岩沢、鈴木、東峰の石井、堀越、天神峯の石橋、石毛、加藤らは、集会の準備に余念がなかった。

 講壇の時計が一時を告げた。雨を衝いて講堂に集まってくる者がチラホラ見える。中にはずぶ濡れになって、裸足でくる者もいた。一時二〇分頃になると、講堂は殆んど満員で椅子に座りきれなくなった。一時半開会までには降りしきる土砂降りの豪雨にもめげず、会衆で講堂は埋め尽くされた。回廊までが、立つ人でいっぱいだった。

 武治らの喜びは大変なものだった。雨は風を呼んで嵐となり、どうやら台風になったようだ。横なぐりに激しく叩きつける風雨が弾丸のように窓ガラスを打って、話声も聞けないほどだ。
 見ると集る者は大体、天浪、木の根、横堀、古込、天神峯、東峰を中心とする予定された空港敷地内の開拓部落の入植者が大部分だった。その他に芝山町、富里、八街、近隣町村から来たものを数えると、一二〇〇人ぐらい集まった。

 講堂の傍では腕組みをした戸田が、これを凝視していた。やはり側でこれを見ていた武治が、戸田をチラと見ていった。
「空港は、もうできねえにきまったよ」
「うむ、殆どが敷地内の人だね。この大雨の中をこれだけ集まるんだから、相当みんな関心があるんだね」
「俺は今日はお流れだと思って、半分、諦めていたよ、戸田さん」
 その時だった。会場の隅から、「おーい、まだ始まらないのか」と、叫ぶ誰かの声。

 むんむんとする熱気が場内に漲った。富里からは富里反対同盟の野沢会長、吉川総一青年行動隊長、菅沢久夫らの顔がすでに見えていた。それに襟にバッジをつけた社共の県会議員二人もいた。

 武治は今日の司会者として登壇した。彼が登壇すると、会場から一斉に拍手が鳴った。武治の表情は緊張した。「空港絶対反対」と墨痕凛々と書かれた襷を肩に、額にはキリリと白鉢巻を締めつけていた。
「われわれは敗戦でほうり出され、裸一貫から身を起こした開拓者です。草の根を食いながらも開拓した土地です。農民です。みなさん富里農民を倣って農地を死守しようではありませんか。たしかに金は一時、土地は末代です……」
 武治の激越な開会の挨拶は続いた。彼は満面紅潮し、やや焦り気味だった。口角から白い泡が飛び散った。それが高い演壇から、下の座席にまで届いた。

 彼は、なおも続けた。
「この血と汗の結晶である農地は、殺されても手放すことはできない。われわれは団結して佐藤内閣の圧制に対して最後まで闘おう」
 決意を表明してひとまず降壇したが、彼は終始不動の姿勢のままだった。

 改めて議長団が選出され、武治以下三名が登壇して座った。
 石橋庫三、神崎友治、岩沢辰巳、木川武治らだった。
 まず襷をかけた戸田が、登壇しようとすると、会場の中から誰かが「あれはヤソだぞ」という声が聞こえてきた。戸田がヤソ(クリスチャン)だということは、みんな知っているらしかった。クリスチャンとは、ローマ時代のキリスト教徒弾圧にあたって、つけられた綽名だった。戸田の耳にその声が届いたかどうかは知れないが、彼は落着いた足どりで階段を上った。

 戸田は静かな口調で話し出した。
「私が今ここに上るとき、誰かが私をヤソと呼んでくれたが、私はヤソだからこそ富里のときから、この運動に加わったのです。国家権力が空港だからといって、農民から農地を奪うということに、私は黙っておれません。これは何も富里や三里塚に限られた問題ではなく、日本中の、世界中の農民に対する私の見解です。これは決して理屈や理論ではありません。私の心の止むに止まれぬ発露です……」

 話が高潮してくるに従って、彼の上半身は揺れて、その手が上下左右に振られた。話しながら戸田はそれとなく、場内を見渡した。敷地内の農民が殆どで、顔見知りも多かった。戸田はこれからの闘いを踏まえて、基本的な彼の決意を述べたに過きなかった。
 他に富里を代表して野沢清一、吉川総一、社共の代表がかわるがわる、激励の挨拶を述べた。吉川総一は富里青行隊長として、反対同盟の中心人物だった。彼は主として安保問題を強調して、米軍のブルー14空域に左右されて、富里や三里塚に空港が決定されたのだといった。

 戸田はそれらを聞きながら半年前、同じこの場で、「富里空港反対集会」が社会党の主催で、開かれたことを想い出していた。戸田はそのとき、やはりここで一場の決意を述べたが、あのときの富里問題が今は三里塚にその場所を一変したことを思うと、なぜか新な心の憤りを止めることができなかった。そうした憤懣やる方ない心の中で、半年前この壇上から叫んだ自分の言葉の一語一語を、反芻しながら語った。

「元来、この空港は独占資本のもので国家的とか公共とかいう美名の下に、何をやろうとしているのか。農民から農地を収奪し、農民切り捨てと農業破壊を狙うものです。空港によって利する者は、絶対に農民でない。騙されてはなりません。農民を血祭りにあげんとするこの空港――絶対に許してはなりません。この農民殺し――自民党政権の暴政を許すようなことがあったら、日本に農民はいなかったも同然です。この闘いは農民の名において生命を賭ける価値あるものです」

 戸田はあのときも、熱情を押え切れず、会衆に向かって諸手を高々と挙げて、絶叫したことを想い出した。彼も正直いってあのとき、半年後にその空港が、まさか三里塚にくるとは夢々思っていなかった。三里塚の誰もが、そうだったであろう。
 だから半年前のあのときの富里空港反対集会には、三里塚の農民の顔は稀だった。

 四時半、石橋庫三の閉会の辞をもって、初の集会は終った。――終って各部落の主だった者が、後に残った。講堂の一隅には畳が八畳ばかり敷かれた所があった。残った者がそこに円座を作った。今回の総括と今後の同盟の運営や運動方針について話し合うためだった。そして、公式に各部落からの同盟役員の選出があり、改めてこの席上で戸田以策の委員長推挙が確認された。

 ここに三里塚空港反対同盟が、正式に発足し、公然化した。やがて、これが騒音地帯の芝山町と結合し、「三里塚・芝山連合空港反対同盟」となるのである。

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